ティムール朝成立後の用例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 10:21 UTC 版)
「サルト人」の記事における「ティムール朝成立後の用例」の解説
一方で、14世紀のティムール朝の時代から、「サルト」の用例は徐々に変化していった。ティムール朝期の著名な文人であるアリーシール・ナヴァーイーは、イラン系言語を「サルト語 Sart tili」、その話者を「サルト人 Sart Ulusi」と呼び、同様にバーブルも、アンディジャンのテュルク系住民と区別して、マルギランの住民を「サルト」と呼んでいる。こうしたことから、チャガタイ語を使うティムール朝期の都市文化においては、イラン系言語の話者が「サルト」と呼ばれていたことが分かる。また、バーブルはカーブルの住民についても同様に「サルト」の呼び名を使っている。 しかし、16世紀のシャイバーニー朝のウズベク人による支配が始まると、「サルト」の用法も大きく変わった。遊牧ウズベクは、キプチャク系テュルク語を話す半遊牧民集団である自分自身を「ウズベク」、先住民であるカルルク系テュルク語を話すオアシス定住民を「サルト」と呼び、両者を明確に区別した。遊牧ウズベクが定住化した後も、遊牧ウズベクの子孫を「ウズベク」、そうでない者を「サルト」とする語用法は根強く残った。また、この時代から、これまで定住民を指す同義語として使われてきた「サルト」と「タジク」が、異なる集団を指す用語として意識されるようになり、それぞれ前者はカルルク系テュルク語の話者を、後者はペルシア語の話者を指す用語として使われるようになっていった。
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