内政・外政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/18 14:37 UTC 版)
「クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ」の記事における「内政・外政」の解説
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世にヴィジャヤナガル王国の版図は最大となり、国内は首都ヴィジャヤナガルをはじめ賑わい、王国には平和が広く行き届き大いに繁栄し、最盛期を迎えた。彼は王国の発展にも努め、国内では各地に都市に貯水池、川にはダムや堤防をつくり、商工業を奨励し、国内を安定させた。 さらに、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは税収の安定をはかるために、15世紀末にサールヴァ朝より成立しつつあったヴィジャヤナガル王国の領主層であるナーヤカに徴税させる「ナーヤカ制」を確立しようとした。これはナーヤカに自分の領地を知行地して改めて与え、徴税や世襲などの特権を認めるかわり、忠誠や納税、軍役奉仕などの義務を負わせるもので、任地替えもよく行われた。 対外貿易においては、綿花やさとうきびなど商品作物を栽培させ、西アジアやポルトガルとの交易でそれらを輸出させた。ポルトガルでは、ヴィジャヤナガル王国は「ビスナーガ」として知られていた。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはポルトガルと積極的に交易を行い、西アジアからの軍馬の輸入を確保し、軍の維持に努めた。パイスによると、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世ヴィジャヤナガル王国は13000頭にもおよぶ軍馬を輸入し、その大部分はホルムズ島を経由していた。 対外貿易の成功の要因は、ヴィジャヤナガル王国内にはカリカットやマンガロールなど優れた外港が300以上も存在したからであり、これらの外港にはポルトガル人や西アジアのイラン人のみならず、アラビア半島、中国(明朝)、東南アジア諸国、アフリカからも交易目的の人々が来航し、ヴィジャヤナガル王国の外港はインドにおける貿易の中心地として非常ににぎわった。 これにより、国内には莫大な富が流れ込み、首都ヴィジャヤナガルをはじめとしてヴィジャヤナガル王国は多いに繁栄し、トゥルヴァ朝の時代、首都ヴィジャヤナガルの人口は48万を数え、明の首都である北京やオスマン帝国の首都イスタンブールの60万に次ぐ、世界有数の大都市であったことが知られる。
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