デタントの背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 06:18 UTC 版)
デタントの推進には米ソ両国の逼迫した内政、外政事情が大きく関係していた。ソ連主導でデタントを進めることになった背景には、ソ連をはじめとする東側諸国の農業政策の失敗、非効率な食糧流通(年間3,000万トンの小麦が流通過程で失われていた)により食糧自給が不可能になり、アメリカとの良好な関係を維持する必要に迫られたことが大きい。 1962年のカナダからの穀物緊急輸入を皮切りに、ソ連はアメリカの穀物メジャーから穀物買い付けを行い、1972年以来のソ連による穀物輸入の著しい増加は、ソ連の貿易収支を悪化させる大きな原因となっていた。小麦や大麦やライ麦の生産量は世界一にも関わらず、オイルショックで得た外貨で国際市場で大量の穀物買い付けを行って高騰させたことからソ連は大穀物強盗(英語版)と呼ばれた。 またアメリカでもジョン・F・ケネディ政権により始められ、その後泥沼化の一途をたどったベトナム戦争により膨らんだ軍事出費の増加を抑える必要があったことと、1969年に就任したニクソン大統領がベトナム戦争からの早期撤退を公約としており、その実現のためには北ベトナム政権を支援していたソ連との関係改善が必要だったという背景があった。 実際に第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年4月には、北朝鮮近海でアメリカ海軍偵察機が撃墜される事件が発生し、31人の搭乗員が死亡した。この事件の報復のためにニクソン政権内では戦術核兵器で北朝鮮の基地を攻撃することも検討されたが、当時デタント推進を最優先していたニクソン大統領は北東アジアにおける新たな戦争を招くことを避けるために、北朝鮮の金日成政権に対する報復を行わなかった。
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