デタント推進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 16:20 UTC 版)
「リチャード・ニクソン」の記事における「デタント推進」の解説
ニクソン時代にはトルーマンやアイゼンハワーの時代の東側諸国に対する「封じ込め政策」はすでに過去のものであり、ケネディ政権の時代に米ソ関係はデタント(緊張緩和)が進んで、部分的核実験停止条約が締結されていたがアジアでの緊張緩和は進まなかった。しかしベトナムからの撤退をスローガンに大統領に当選したニクソンはその政策を進めるために中国との関係改善を就任前から考えていた。 またジョンソン時代に比較的良好な関係にあったソ連とは一層「デタント政策」を推進した。1969年よりフィンランドのヘルシンキでソ連との間で第一次戦略兵器制限交渉 (SALT-Ⅰ) が開始され、1972年5月にニクソンがソ連を訪問して交渉は妥結してモスクワで調印が行われた。また同時に弾道弾迎撃ミサイル制限条約も締結するなど、米ソ両国の間における核軍縮と政治的緊張の緩和が推進された。 この背景には、ベトナム戦争の早期終結を実現するために中華人民共和国との関係改善を進めたことが、同国と対立していた対ソ関係にも波及したことと、同じくベトナム戦争により膨らんだ膨大な軍事関連の出費が財政を圧迫してドル不安を引き起こしたことで軍事費を押さえる目的もあったと推測されている。 デタントを進めていたニクソン時代でも冷戦特有の第三次世界大戦に発展する可能性があった事件の1つが起きており、第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年の4月には、北朝鮮近くの公海上でアメリカ海軍偵察機が撃墜される事件が発生し、31人の搭乗員が死亡した際、ニクソンは北朝鮮への核攻撃準備を軍に命じるも、当時ニクソンは酩酊状態にあったことからキッシンジャーが「大統領の酔いが醒めるまで待ってほしい」と進言して撤回された という証言もある。
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