デタントの拒否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:49 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1980-1991)」の記事における「デタントの拒否」の解説
1970年代はアメリカの自信を揺るがせた時代だった。ベトナム戦争とウォーターゲート事件は大統領への信頼感を損なった。1975年に南ベトナムが陥落し、1979年のイランアメリカ大使館人質事件は長引き、ソビエトによるアフガニスタン侵攻、国際テロの増加、および軍拡競争の拡大という国際的な憤懣のタネが続き、国際問題に対処する国の能力に疑問を生じさせた。国内ではエネルギー危機、高い失業率、急速なインフレと金利の上昇で経済計画を困難なものにし、アメリカの将来的な繁栄について基本的な疑問を投げかけることになった。 1979年にカーターが行った「自信の危機演説」でキーとなった言葉であるアメリカの「マレーズ」(無力感を引き起こすもの)は1970年代末と1980年代初期では根拠の無いものだった。ソビエト連邦はレオニード・ブレジネフの指導下で都市労働者の賃金を2倍にし、田園部労働者の賃金も約75%上げ、数百万戸の家族用アパートを建設し、大量の消費財と家庭電化製品を生産することで生活水準を改善した。ソビエト連邦の工業生産高は75%上昇し、石油と鉄鋼については世界最大の生産国になった。これにも拘らず、ブレジネフ政権後期のソビエト連邦は経済と政治の沈滞を経験していた。 海外で歴史の潮流はソビエト連邦有利に変わりつつあった。アメリカ合衆国が不況になりベトナムでは泥沼にはまり込んでいる一方で、特に第三世界の親ソビエト政権は大きく前進していた。アメリカ合衆国は北ベトナム軍がサイゴンを陥落させることを阻止できず、共産主義政府の下で独立ベトナムの統一を許すことになった。モスクワの後ろ盾を受けた共産主義運動が急速にアフリカ、東南アジアおよびラテンアメリカに広がっていた。ソビエト連邦はブレジネフ・ドクトリンに従ってアフガニスタンに派兵した。1979年のアフガニスタン侵攻は、NATOに対抗する東側のワルシャワ条約機構が始まって以来、その範囲外に軍隊を派遣した初めての機会となった。 アメリカが海外でも国内でも力を落としていると認識されたことに対して、「新保守主義」あるいは「ネオコンサバティズム」と呼ばれる、依然としてその多くは民主党員だった学界、ジャーナリスト、政治家および政策立案者の集団が1970年代(特に1972年ジョージ・マクガヴァンを大統領候補に指名した後)の防衛問題において民主党が左傾化したことに反逆し、国の国際政治姿勢が弱まったことについてリベラル派民主党員を糾弾もした。多くの者は民主党のヘンリー・"スクープ"・ジャクソン上院議員の周りに集まったが、後には親ソビエト共産主義勢力の拡大に対決することを約束したロナルド・レーガンおよび共和党と戦線を組んだ。 その主たる標的は共産主義の後退というよりも封じ込めという昔の政策だった。交渉、外交および武器制限を通じた和平が目指されたソビエト連邦との「デタント」(雪融け)が直接の標的となった。 ノーマン・ポドレツに指導されたネオコンサバティズムは、ネヴィル・チェンバレンがミュンヘンで交渉したことの謂いである「宥和政策」として冷戦における伝統的外交政策を攻撃した。彼等はアメリカ合衆国に比較的弱い敵に対する譲歩を「悪」の「宥和」であると見なし、「デタント」を攻撃して、ソビエト連邦を最恵国待遇とすることに反対し、第三世界におけるアメリカの一方的な介入を国際事情に関するアメリカの影響力を高める手段として支持した。レーガンが当選する以前に、ネオコンサバティズムは影響力を持ち、ベトナムにおける敗北やその結果として起こった東南アジアでの大きな犠牲によって生じた反戦感情を止めようとした。 1970年代、政治学者で後のレーガン政権では国連アメリカ大使になったジーン・カークパトリックが民主党への批判を強めていった。カークパトリックは以前のリベラル民主党派からネオコンサバティズムの概念に考え方を変えた。民主主義を受け容れることのできると考えられ、アメリカ合衆国の同盟者ではない権威主義独裁主義者と、頑固に変化を受け容れられないと見なす共産主義的かつ全体主義的独裁者の違いを示した。
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