民主党へ
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2007年12月に民主党へ入党。郵政造反組議員の自民党から民主党への鞍替えは川上義博・滝実(途中、新党日本を経て無所属)に次いで3人目である。2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙では、同党公認で福井3区へ選挙区を移動して出馬、小選挙区では敗れたが比例で復活当選し国政に復帰した。なお、民主党が郵政造反組を衆院選で公認したのは初めてである。 2012年の第3次野田改造内閣で経済産業副大臣に就任した。 同年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では、民主党公認で福井3区に出馬するも落選。その後、政界を引退した。 2019年、旭日重光章受章。
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民主党へ
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1994年(平成6年)、前年に宮澤内閣不信任決議案に賛成をし自民党を再び離党して、新進党に参加をした山口敏夫の対立候補として、自民党公認で埼玉10区に立候補をすることが内定する。しかし、翌1995年に二信組事件で山口が東京地検特捜部に逮捕されたことなどにより、自民党は松崎ではなく、山口泰明を同区に擁立することを決めた。それにより、1996年(平成8年)9月29日、旧民主党結成に参加する。 同年10月20日施行の第41回衆議院議員総選挙に埼玉10区で民主党公認で立候補するが次点となり、比例復活できず落選(惜敗率58.3%)する。なお、山口泰明は、同姓であるが山口敏夫との間に血縁関係等は存在しない。また、この選挙では山口敏夫夫人の桂子が同選挙区で夫の後援会に推されて無所属で立候補をしている(結果は、全5候補中4位得票率6.6%)。 2000年(平成12年)6月25日施行の第42回衆議院議員総選挙に再度立候補するが落選(惜敗率68.0%)する。 2003年(平成15年)11月9日施行の第43回衆議院議員総選挙において比例北関東ブロックで当選(惜敗率85.8%)する。ちなみに10年前の日本新党除名に伴って、松崎に代わって参議院議員に繰り上げ当選した円より子は当時民主党副代表。衆議院国土交通委員会委員、政治倫理・公選法改正特別委員会委員、民主党埼玉県連常任幹事を務める。 2005年(平成17年)9月11日施行の第44回衆議院議員総選挙で圧倒的な小泉旋風の前に落選(惜敗率66.8%)する。 この結果松崎は当時の民主党内規の「小選挙区で3回連続で落選した元職は基本的に公認しない」の該当者になった。更に2005年11月、民主党は「同一の小選挙区で2回連続以上落選した新人・元職候補は次の選挙で公認しない」という衆院候補選定基準を発表。この基準に則り党執行部は2006年末に該当する全国の総支部長を交代させる方針を決めたが、埼玉10区については2006年末までに新たな候補者を決められなかったため、松崎が引き続き総支部長に留まり、そのまま次期総選挙公認候補となった。 2009年(平成21年)8月30日執行の第45回衆議院議員総選挙で初めて小選挙区で当選する(2期目)。 民主党本部は元職の松崎を当選させるため行田邦子参議院議員を選対本部長に招き、鳩山由紀夫代表や菅直人代表代行などが次々に選挙区入りをして松崎を応援した。菅直人代表代行は選挙期間中に2回も埼玉10区入りするほどの熱の入れようであった。無駄を省くとしてリサイクル自転車で選挙区巡りをし話題となった。
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民主党へ
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1997年、衆議院宮城6区の補欠選挙が行われ、新進党を離党し自民党から復党を断られた大石は無所属で立候補する。しかし、自民党新人の小野寺五典に再び敗北した。しかし2000年になって、小野寺が選挙戦中、有権者に線香セットを配っていた事実が判明。有権者への金品・物品の供与は公職選挙法の「寄付行為の禁止」に該当し、有罪判決を受けた小野寺は議員辞職する。そのため宮城6区では史上初の「補選の補選」が行われ、前回の補欠選挙で落選後、民主党に入党していた大石は同党公認で補選に出馬し、当選。4年ぶりに返り咲きを果たした。
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民主党へ
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1996年1月、社会民主党結党に伴い党愛知県連代表に就任するが、9月に社民党を離党。 新党さきがけを離党した鳩山由紀夫や菅直人、新進党を離党した鳩山邦夫、元北海道知事の横路孝弘らを中心に結党した旧民主党に参加した。 同年10月の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い愛知5区から出馬し、自民党の木村隆秀、新進党の伴野豊らを破り、3選(木村が比例復活)。 1998年、民政党・新党友愛・民主改革連合の合流により民主党が結党された。 2000年9月、鳩山由紀夫民主党代表の下で党国会対策委員長に就任。森喜朗首相に対し、2度にわたり森内閣不信任決議案を提出したが、いずれも否決された。 2002年9月、民主党代表選挙では同じ旧社会党出身の横路孝弘副代表を支援したが、横路は鳩山代表に敗れる。役員人事により選挙対策委員長に就任するが、鳩山は幹事長人事でつまずき、さらに民由合併の推進による混乱の責任を取り、わずか3ヶ月で辞任。続く菅直人代表の下でも選挙対策委員長に留任した。 2003年の第43回衆議院議員総選挙では愛知5区で4選。なおこの選挙では、同年3月に衆議院議員を辞職して北海道知事選挙に出馬し、高橋はるみ知事に敗れ落選中だった同期当選の鉢呂吉雄に対し、それまでの8区ではなく4区に国替えして出馬するよう説得。鉢呂は赤松の説得に応じ[要出典]、北海道4区から出馬して当選した。 2004年5月、菅代表の辞任に伴い選挙対策委員長を離任。 2005年の第44回衆議院議員総選挙では、愛知5区で自民党の木村隆秀に初めて敗北を喫したが、重複立候補していた比例東海ブロックで復活し、5選。総選挙後、辞任した岡田克也に代わり民主党代表に選出された前原誠司の下で、党副代表に就任した。 2006年、小沢一郎代表の下でも副代表に留任。 2007年8月には再び党選挙対策委員長に就任した。
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