民主党への再編
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いっぽう細川連立政権のなかで連立残留派だった山花、赤松らは、さきがけの鳩山由紀夫らと共に、それぞれ脱党して民主党を結成。1996年の第41回総選挙では民主党は現状維持、新進党は不振、社会民主党(1月社会党より改称)と、同党左派が分裂した新社会党は惨敗した。新進党は自民党との保保連合を模索するが、却って自民党に議員を引き抜かれる結果に終わり、さらに太陽党、フロム・ファイブが分裂した。1997年12月31日、新進党は解散し、民社系は新党友愛、公明系は新党平和に再編された。ただ、一部は小沢率いる自由党に留まった。 1998年1月、新党平和と公明は合同し、公明党に戻った。4月、民主党に新党友愛の議員たちが、元自民党の保守派議員といっしょに加わることによって、旧民主党をいったん解散し、改めて新・民主党として再編。旧社会党と旧民社党による公明党抜きの統一が実現することになった。だが民主党のなかでの、旧社会党と旧民社党との確執は、憲法改正などの諸問題にどのような姿勢を取るのかを通して依然として残存し、民主党が党内で意思統一を行うに当たり大きな妨げとなり続けた。 小沢自由党は、1999年1月に自民党と連立政権を組み、10月には公明党も加わった(ただし、4月から公明は実質的に閣外協力していた)。しかし2000年4月に決裂、連立残留派が保守党として分裂した(のち自民党に吸収)。2003年9月、小沢自由党は民主党に合流した(民由合併)。民主党に参加した小沢は、以前とは逆に社民党や民主党内の社会党系議員との協調路線に転じた。これは、党内で政策的距離の遠い社会党系を取り込むことで、党内地盤を固める狙いがあったという説もある。11月、小沢と社会党系議員の領袖、横路孝弘の間で、国際貢献のために、将来の国連軍への再編を想定した「国連待機部隊」を創設することで合意した。 2009年8月の第45回総選挙では、民主党は社民党の他、国民新党などと選挙協力を行った。選挙の結果民主党は大勝し、社民党、国民新党との連立政権(民社国連立政権)が発足した。しかし長続きせず、2010年5月、普天間基地移設問題で決裂し、社民党は連立を離脱した。その後、民主党は三党合意などによる自公との連携を強め、新たな形の「自公民(民自公)路線」に転じた。 2012年12月、自公が政権復帰すると、民主とは再び距離を置くようになり、民主も対決色を強めた。2015年には共産党が野党共闘路線に転じ、共産党を含めた非自公選挙協力態勢が議論されることになった。しかしながら、旧社会党・総評系と旧民社党・同盟系の間で共産党との関係に大きな温度差が生じることになり、民進党解体の一因にもなった。
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