民主党の大統領指名候補者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 06:02 UTC 版)
「1972年アメリカ合衆国大統領選挙」の記事における「民主党の大統領指名候補者」の解説
ジョージ・マクガヴァン、サウスダコタ州選出合衆国上院議員 ヘンリー・M・ジャクソン、ワシントン州選出合衆国上院議員 ジョージ・ウォレス、アラバマ州州知事 シャーリー・チザム、ニューヨーク州選出合衆国下院議員 テリー・サンフォード、元ノースカロライナ州州知事 ヒューバート・H・ハンフリー、元副大統領、ミネソタ州出身 エドマンド・マスキー、メイン州選出合衆国上院議員 上院院内幹事テッド・ケネディが1972年の指名を得る有力候補とされていたが、その望みは1969年7月に起きた「チャパキディック事件」で頓挫した。ケネディは候補者にならなかった。 民主党主流派のお気に入りは、1968年の大統領選挙で民主党の副大統領候補となり自身その義務を果たした中道派、エド・マスキーだった。ニューハンプシャー州予備選挙で、マスキーはカナダ人の手紙に関するクレームに対して自身とその妻ジェーンを弁護する演説を行った。新聞はマスキーがこの演説の時に泣いていたと報道し、このことがマスキーには予備選挙で予想以上に悪く働いたように思われ、一方マクガヴァンが驚くべき僅差で2位に入った。マクガヴァンはこの時気運に乗っており、その選挙対策マネジャーであるゲーリー・ハートがうまく統制していた。 アラバマ州州知事ジョージ・ウォレスはアウトサイダーのイメージがあり、南部でも(フロリダ州予備選挙では全郡を制した)また北部でも阻害され不満を抱く有権者に浸透した。強力な選挙運動になると思われたものが短命になった。ウォレスは選挙運動中にアーサー・ブレマーによる暗殺未遂で撃たれ麻痺が残った。暗殺未遂の翌日にウォレスはミシガン州とメリーランド州予備選挙で勝利したが、麻痺を残した狙撃事件のためにその選挙運動は実質的に終わった。 最終的に体制派の反対があったものの、マクガヴァンは草の根支持を通じて予備選挙を勝ち抜くことで候補者指名を獲得した。マクガヴァンは1968年の騒々しく混乱した指名争いと党大会の後で、民主党の指名の仕組みを再構築する委員会を率いてきた。マクガヴァン委員会の基本的原則は、民主党予備選挙が民主党指名候補の中で勝者を決めるべきということであり、これがその後の全ての指名争いでも継承されることになった。しかし、新しい規則はその影響力が制限される多くの著名民主党員や、マクガヴァンの選挙運動を支持することを拒んだ政治家達(ニクソンを支持する者すらいた)を怒らせ、マクガヴァンの選挙運動はニクソンに比べて資金面で著しく不利な状況に置かれた。ミュージシャンのサイモン&ガーファンクルやロック・バンドのシカゴは、マクガヴァンを熱烈に支持した。
※この「民主党の大統領指名候補者」の解説は、「1972年アメリカ合衆国大統領選挙」の解説の一部です。
「民主党の大統領指名候補者」を含む「1972年アメリカ合衆国大統領選挙」の記事については、「1972年アメリカ合衆国大統領選挙」の概要を参照ください。
民主党の大統領指名候補者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 01:46 UTC 版)
「1964年アメリカ合衆国大統領選挙」の記事における「民主党の大統領指名候補者」の解説
リンドン・ジョンソン、現職大統領、テキサス州出身 ジョージ・ウォレス、アラバマ州知事 ジョンソンの大統領候補指名は確定的だったが、ジョンソンは党大会を支配し、公民権に関する公然の闘争を避けることを望んだ。それでも、公民権問題に関しては指名の時期に2つの派から挑戦を受けた。 人種差別主義者でアラバマ州知事のジョージ・ウォレスは、ジョンソンに対抗して北部州での多くの予備選挙に出馬し、メリーランド州、インディアナ州およびウィスコンシン州の予備選挙では、ジョンソンに対する当て馬である地元出身のお気に入り候補に対して驚くべき善戦をした。
※この「民主党の大統領指名候補者」の解説は、「1964年アメリカ合衆国大統領選挙」の解説の一部です。
「民主党の大統領指名候補者」を含む「1964年アメリカ合衆国大統領選挙」の記事については、「1964年アメリカ合衆国大統領選挙」の概要を参照ください。
- 民主党の大統領指名候補者のページへのリンク