合衆国上院議員
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「ロバート・M・ラフォレット・シニア」の記事における「合衆国上院議員」の解説
ラフォレットはその人生の残り、すなわち1906年1月2日から1925年に死ぬまで合衆国上院議員を務めた。上院議員の間に、アメリカが第一次世界大戦に関与することに強く反対し、児童労働法、社会保障、女性参政権およびその他の進歩的改革を推進した。ユージン・V・デブスやその他戦争反対者の告発に反対し、ウォレン・ハーディング政権中のティポットドーム・スキャンダル調査を始めるときは中心的役割を演じた。 ラフォレットは周期的に「神経」を逆撫でる才気溢れる演説家だったので、長年の間に多くの敵を作り、特にアメリカが第一次世界大戦に参入することに反対したときと、戦時中の言論の自由を防御したときは顕著だった。セオドア・ルーズベルトは、ラフォレットがアメリカの商船の武装に反対したとき、「絞首刑にすべきスカンク」と呼んだ。上院でのラフォレットの同僚の一人は、ラフォレットがウッドロウ・ウィルソン政権による1917年の対独宣戦要求に反対したとき、「ドイツ政府の首班よりも善良なドイツ人だ」と言った。 1906年、ラフォレットがワシントンD.C.に戻ったとき、アメリカ経済は企業統合が進み財政力が少数の者の手に集約されることで変わっていた。上院議員のネルソン・アルドリッチやジョン・C・スプーナーはこれら少数の財政的特権階級の利益を代表する者と広く見られていた。ジャーナリストのデイビッド・グラハム・フィリップスは院内で汚職や企業利益への癒着を公然と非難する「上院の裏切り」と題する一連の記事を書いた。 アルドリッチは保守派の指導者として、ラフォレットやそのインサージェンツのメンバーを重要でない委員会に割り当てることで、その実行力を制限することができた。ラフォレットはこれに反応して消費者の権利を要求できるあらゆる機会を利用した。議会が閉会になると、全国を演説旅行し、消費者に不利な投票を行っていると考えられる上院議員を暴露するために「読み上げ」を行った。この旅行で全国的な追随者が大いに増えた。 ラフォレットは首都に戻ると、進歩派の指導者と目された。ジョナサン・ドリバー、アルバート・カミンズなどと共に公式に近い集団を形成した。これにはステファンズ、フィリップスのような暴露的ジャーナリストおよびルイス・ブランダイス連邦最高裁判所判事も加わり、議会や司法界における保守勢力を制限するための問題や戦略を話し合った。この討論会を拡げるために1909年には『ラフォレット・ウィークリー』の発行を始めた。 ラフォレットは、そのアメリカ経済に関する怖れが銀行家の1907年恐慌の間に確認されたと考えた。ラフォレットはアルドリッチの提案に反対した(この提案はJ・P・モルガンのような財政家の援助で作られていた)。その計画は一部を鉄道債券に裏書きされた緊急通貨5億ドルを発行し、経済の集中化を確立し自由主義制度を潰すものと見られた。ラフォレットの上院における困難さは、仲間の進歩派セオドア・ルーズベルトが再選を望ます、ウィリアム・タフトが大統領になったことで悪化した。
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