合衆国上院時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:18 UTC 版)
「ジョン・マクレラン」の記事における「合衆国上院時代」の解説
マクレランは、1943年から現職のまま死亡する1977年まで、アーカンソー州選出の上院議員を務めた。彼の在職中、予算委員会委員長と、政府運営委員会委員長を22年務めた。マクレランはアーカンソー州の歴史で最長の在職をした合衆国上院議員であった。彼の上院在職期間の後半にアーカンソー州は、上院予算委員会委員長のマクレラン、下院歳入委員会委員長のウィルバー・ミルズ(英語版)、下院通商委員会委員長のオレン・ハリス(英語版)、上院外交委員会委員長のJ・ウィリアム・フルブライト、下院農業委員会委員長のトゥック・ゲイシングズ、そして強大な下院議事規則委員会の委員ジェームズ・W・トリンブルと、恐らく最も力強い議会の代議員団を持っていた。 マクレランはまた上院常設調査小委員会委員長も18年務め(1955年-1973年)、ニュージャージー州フォートモンマスの合衆国陸軍通信部隊での破壊工作の審理を継続し、そこではソ連のスパイのジュリアス・ローゼンバーグ、アル・サラント(英語版)、ジョエル・バー(英語版)全員が1940年代に働いていた。 1957年、マクレランが議員になる前からの法律事務所の共同経営者の1人であったモード・クロフォードがカムデンで失踪した。彼女の失踪は未解決のままである。マフィアがマクレランに圧力をかけるために誘拐されたのでは無いかとも考えられたが、脅迫状が届けられることは無かった。失踪事件は国際的な注目を集めた 。 彼は有名な陸軍=マッカーシー公聴会(英語版)の参加者で、これらの審理を行った上院議員ジョーゼフ・マッカーシーに抗議して、その小委員会への民主党の欠席を指揮した。マクレランは2005年の映画「グッドナイト&グッドラック」で、その実際の公聴会の場面に登場した。 彼のリーダーシップの下、委員会は有名なマクレラン委員会を指揮した。これはより一般的には1963年の公聴会よりバラキ公聴会としても知られ、アメリカ全土の組織犯罪活動を捜査し、チームスターズ(英語版)(Teamsters, トラック運転手組合)の幹部とマフィア(1957年のジミー・ホッファや、シカゴのサム・ジアンカーナなどのこの時代の他のマフィアの幹部 )の連携を集中審議した。最初のアメリカのマフィアの密告者ジョゼフ・ヴァラキは、1963年にマクレラン委員会の前に現れ、合衆国とカナダにおけるマフィア活動の目撃談をアメリカの公衆にさらした(バラキ公聴会)。マクレランは組織犯罪に対する取り組みを、政治的転覆工作の捜査に切り替える1973年まで続けた。この時代に、彼はロバート・ケネディを主席顧問に雇い、彼を全国的に注目させた。マクレランは、多数の防衛関係の納入業者やテキサス州の投資家のビリー・ソル・エステスを含む、多くの政府の汚職事件を捜査した。 1972年の最後の上院選挙で、マクレランは同僚の民主党員で当時合衆国下院議員のデヴィッド・プライヤー(英語版)を、党の決選投票で52%対48%の僅差で倒した。その後、彼に対抗して出馬した唯一の共和党員である、当時アーカンソー州ノースリトルロックで獣医師をしていたウェイン・バビット(英語版)を61%対39%の差で打ち負かした。 1974年、マクレランはフォード大統領に対してリン・A・デイヴィスをリトルロックの連邦保安官に再指名するのを支持しないと伝えた。マクレランはデイヴィスが党派心が強すぎると主張した。強硬なマクレランを沈めるためにフォード大統領はデイヴィスに代えてペリー郡のレン・E・ブレイロックをデイル・バンパーズの対抗馬として指名した。
※この「合衆国上院時代」の解説は、「ジョン・マクレラン」の解説の一部です。
「合衆国上院時代」を含む「ジョン・マクレラン」の記事については、「ジョン・マクレラン」の概要を参照ください。
- 合衆国上院時代のページへのリンク