合衆国への奉仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 03:33 UTC 版)
「ウィリアム・スワード」の記事における「合衆国への奉仕」の解説
1849年、スワードはホイッグ党からアメリカ合衆国上院議員に当選し、反奴隷制を掲げる指導者として頭角を現した。ホイッグ党員仲間としてスワードはザカリー・テイラーの友人であり、テイラーが大統領選に出馬したときは、「彼は最も紳士的で親しみやすい男だ」と言って支援した。スワードは逃亡奴隷法に反対し、法廷では逃亡奴隷を弁護した。スワードは憲法よりも「高次の法」があると信じ奴隷制は道徳的に誤りであると主張した。この論理を逃亡奴隷の弁護や個人的自由の諸法の支持を正当化する材料として使った。1850年、スワードは1850年協定に反対票を投じ、もし奴隷制が廃止されないならばアメリカは内戦に巻き込まれるという演説を行った。スワードはその後も10年間この見解を主張し続けた。自分自身を奴隷勢力の指導的敵対者として表現していた。奴隷勢力は南部の奴隷所有者が政府を掌握し、自由の進展を妨げようとする陰謀と認識されていた。 ホイッグ党の党勢が衰退するとスワードは1855年に共和党に参入し、ニューヨーク州から再度上院議員に選ばれた。この時までにスワードの意見は中道寄りとなり、急進的共和党員として知られる集団との付き合いが疎遠になっていた。1856年の大統領候補指名ではジョン・フレモントに敗れた。1860年の候補指名は得られると予測していたが、多くの代議員はスワードの急進的な過去が指名を勝ち取ることを妨げるのではないかと恐れた。しかし、ホレイス・グリーリーのような急進派もスワードが保守寄りになったことに怒ってスワードに反対した。ヨーロッパで起きていることを見ると、フレモントにイデオロギー的に近いカール・マルクスがスワードを「共和主義的リシュリュー」やフレモントの大統領への野望を妨げる「共和党のデモステネス」と軽蔑的に見ていた。エイブラハム・リンカーンが指名された時、スワードは忠実に彼を支持し、1860年の秋には西部に長い遊説の旅にでた。 エイブラハム・リンカーンは1861年にスワードを国務長官に指名し、スワードはこの職を1869年まで続けた。国務長官としてのスワードはアメリカ合衆国が西部に拡大すべきと主張した。アラスカ購入の交渉に尽力し、1867年3月30日、586,412平方マイル(1,518,800km2)の土地を720万ドルでロシアから購入した。これはテキサス州の2倍以上の広さにあたる。購入価格は1エーカー(約4000m2)当たり約2セントにしかならなかったが、この辺境の地を購入したことについて大衆からは、「スワードの愚行」とか「スワードの冷蔵庫」とかアンドリュー・ジョンソンの「ホッキョクグマ庭園」などと嘲られた。今日アラスカ州では3月の最後の月曜日を「スワードの日」として購入したことを祝っている。 スワードは他にもデンマーク領ヴァージン諸島とドミニカのサマナ湾を併合し、またパナマをアメリカの統治下に置く画策をした。しかし、上院はこれらの条約を批准しなかった。
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