合衆国の最後通告
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「ブラックヒルズ戦争」の記事における「合衆国の最後通告」の解説
グラント政権は外交手段ではブラックヒルズが手に入らないと悟ると、白人たちは別の手を考えざるを得なかった。1875年11月初旬、ミズーリ方面軍指揮官フィリップ・シェリダン少将とプラット方面軍指揮官ジョージ・クルック准将がワシントンD.C.に呼ばれ、グラントや数人の閣僚と会見してブラックヒルズ問題を検討した。彼等は陸軍がスー族の保留地から白人の金採掘者を追い出すのを止めるべきであり、ブラックヒルズをゴールドラッシュの渦中に置くべきとする合意に至った。 さらに、インディアン管理所に出頭しないスー族やシャイアン族の中の、まだ条約を結んでいない部族に対して軍事行動に出ることも検討した。インディアン調査官のアーウィン・C・ワトキンスもこの選択肢を支持する報告書を提出した。「私の判断の真の政策は」とワトキンスは書き、「できるだけ早く、冬季であっても軍隊を派遣して、彼等を叩いて従わせることだ」とした。 1875年12月、インディアン問題委員会は、ミズーリ以西にある指定保留地のスー族「代表者」に対する、次のような最後通告を行った。 「拝啓、内務省長官の下命により、指定保留地外のダコタおよび東モンタナを徘徊するシッティング・ブルら、狂暴かつ無法なスー族インディアンに対し、以下の趣旨を伝えられるよう、ここに要請する。すなわち、来る一月末までに指定保留地に戻り、該当地に留まらない場合、当該のインディアンたちは我々に敵意あるものとみなし、軍事力によって、相応の報いを受けるものとする。」 この地域のインディアン代理人達はスー族を敵に回すことを非常に恐れていた。彼らはまだ条約を結んでいない部族に伝令を送って、1876年1月31日までに保留地の砦に来るよう要求し、さもなくば軍隊を送って攻撃すると脅すよう指示された。スタンディングロック保留地管理所のインディアン管理官は、この伝達を行ったが、雪深い真冬のこの時期に、このような馬鹿げた要求に従うインディアンなど一人もいなかった。そもそもインディアンに「部族の代表」などいないのである。 シェリダン将軍はこのような考えそのものが単に時間の浪費だと考えていた。シェリダンはこう述べた。 「インディアンに対するこの呼び出しはおそらく暖簾に腕押しというものだ。しかも、インディアンは面白い冗談と受け取るだろう」 条約未締結の部族は会議のティーピーで合議を行った。オグララ・スー族のソアバック・バンドの戦士ショートブルは後に、多くのバンドがタング川に集まっていたことを回想し、晩年にこう語っている。 「およそ100名の男たちがパハサパ(ブラックヒルズ)の問題は片付いたという風で砦の管理事務所から出て行った。反対者はバッファロー狩りに出なければないから、春になったら代理人のところに来るということで合意した。」 1月31日に期限が過ぎると、新しいインディアン問題委員会理事のジョン・Q・スミスが、「シッティング・ブルの服従のなんらの報せも受け取っていないまま、陸軍長官閣下の彼に対する軍事行動を直ぐに始めるべきではないという理由がわからない。」と記した。その上官の内務長官ザカライア・チャンドラーはこれに同意して、「貴殿の要求はもっともである。当該インディアンを陸軍省の名において征伐すべきだ」と付け加えた。1876年2月8日、シェリダン将軍はクルックとテリー各将軍に電報を打ち、「敵対者」に対する冬季作戦を開始するよう命令した。 白人たちはシッティング・ブルを、スー族を率いる「大指導者」の一人だと考えていたから、彼の服従がまずスー族征服の第一条件だと考え、このようなやり取りを行っているのである。しかし、上述したようにインディアンの社会に「大指導者」や「代表者」など存在しない。白人は架空の存在に対して怒りを燃やしているのである。白人の勝手な思い込みによって、「ブラックヒルズ戦争」という民族浄化が始まった。
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