事件の発覚と政局への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 05:16 UTC 版)
「大浦事件」の記事における「事件の発覚と政局への影響」の解説
1915年(大正4年)5月25日、政友会総務村野常右衛門は、告発状を検察当局に提出した。これは香川県丸亀市から立候補した白川友一が対立候補の加治寿衛吉の立候補を断念させるため、林田を通じて大浦に一万円を渡したというものであった。しかしこの金が大正倶楽部への交付金として渡っていたことが明らかになり、大浦の買収工作が明るみに出、大隈内閣を揺るがす大問題となった。 司法大臣尾崎行雄は、鈴木喜三郎次官や検事総長平沼騏一郎と協議し、大浦が引退すれば罪を問わないという方針を決めていた。尾崎の回顧録によれば、閣議にこの議論が出されると、大浦に対して厳しすぎると批判が起こった。大浦が「正々堂々と、法廷に出て、是非を争いましょうか」と述べたところ、尾崎は「何を争うのか」と冷ややかに答えた。他の閣僚は苦い顔をして一言も発しなかったという。7月30日付けで大浦は辞表を提出した。かつて、閣僚一人の不祥事で内閣が総辞職する例はなかったが、大隈首相は辞表を提出し、他の閣僚も辞表を提出した。加藤外相を含む内閣閣僚の大半は内政外政の多難さから総辞職を望んでいた。しかし大隈は政権を投げ出す気はなく、また辞表が受理されないと見ており、元老らも存続を勧告した。結局大隈に好意を持っていた大正天皇は元老に諮ることなく辞表を却下し、大半の閣僚を入れ替えて改造大隈内閣が始動した。 大隈は、大浦による買収工作を知らなかったと平沼検事総長に告げているが、その様子を平沼は「狡い」と表現している。
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