事件の発端と戦闘までの経緯とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 事件の発端と戦闘までの経緯の意味・解説 

事件の発端と戦闘までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 05:22 UTC 版)

ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」の記事における「事件の発端と戦闘までの経緯」の解説

事件発端は、慶長13年10月23日1608年11月30日)に肥前日野江藩主の有馬晴信占城チャンパ)(中国語版)に派遣した朱印船マカオ越冬寄港中に日本人船員取引めぐって騒擾事件起こし、それをマカオカピタン・モール(Capitão Mor総司令官であったアンドレ・ペソア(André Pessoa)が鎮圧しこのため日本人側に多数死者出たことであった。 翌慶長14年5月28日1609年6月29日)、ペソア日本航海英語版)の司令官として長崎来着した。ペソアマカオでの騒擾事件に関する調書長崎奉行長谷川左兵衛に対して提出し自身駿府赴いて大御所徳川家康陳弁する申し出をした。この件がポルトガル貿易途絶につながることを危惧した広は、マカオでの事件の真相伏せてペソア書記のマテオ・レイタン(Mateo Leitão)を代理人として駿府遣わせるよう説得した。しかし、レイタン出発後に家康による商品先買権行使に不満を抱いたポルトガル商人たち取引関係の改善広の非を訴えるためペソア直接駿府赴くことを決議した。これはイエズス会士勧告により実現しなかったが、このことで広とペソアの関係は悪化したまた、広は従来の慣行破って取引方法変更したり、持ち込んだ品を一方的に購入したしたため貿易阻害されポルトガル商人反感買っていた。そのため、ペソアレイタン自由貿易保証を得ることも命じていたが失敗オランダ人対日貿易参加阻止かなわず日本船のマカオ寄港禁じ同年7月25日8月24日)付の朱印状家康から下付されたにとどまった広は、マカオでの事件対す報復考えていた晴信を教唆し、ペソア捕縛商船捕獲とを家康請願させた。晴信に伽羅木購入委託していた家康は、報復行為によってポルトガル貿易断絶することを当初懸念していたが、ポルトガル同君連合英語版)を組んでいたスペイン商人マニラ船がポルトガル船に積載されていた生糸などを補完することを保証し、またオランダ船の継続的な来航期待できるようになったため、晴信に許可出した駿府からペソア召喚の命が伝えられたが、身の危険感じたペソア要請拒否して船に籠もり積荷載せたまま出港準備始めた

※この「事件の発端と戦闘までの経緯」の解説は、「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」の解説の一部です。
「事件の発端と戦闘までの経緯」を含む「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」の記事については、「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「事件の発端と戦闘までの経緯」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「事件の発端と戦闘までの経緯」の関連用語

事件の発端と戦闘までの経緯のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



事件の発端と戦闘までの経緯のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS