事件の発端と戦闘までの経緯
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「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」の記事における「事件の発端と戦闘までの経緯」の解説
事件の発端は、慶長13年10月23日(1608年11月30日)に肥前日野江藩主の有馬晴信が占城(チャンパ)(中国語版)に派遣した朱印船がマカオに越冬寄港中に、日本人船員が取引をめぐって騒擾事件を起こし、それをマカオのカピタン・モール(Capitão Mor、総司令官)であったアンドレ・ペソア(André Pessoa)が鎮圧し、このために日本人側に多数の死者が出たことであった。 翌慶長14年5月28日(1609年6月29日)、ペソアが日本航海(英語版)の司令官として長崎に来着した。ペソアはマカオでの騒擾事件に関する調書を長崎奉行の長谷川左兵衛藤広に対して提出し、自身が駿府に赴いて大御所の徳川家康に陳弁する申し出をした。この件がポルトガル船貿易の途絶につながることを危惧した藤広は、マカオでの事件の真相は伏せてペソアの書記のマテオ・レイタン(Mateo Leitão)を代理人として駿府に遣わせるよう説得した。しかし、レイタンの出発後に家康による商品の先買権行使に不満を抱いたポルトガル商人たちが取引関係の改善と藤広の非を訴えるためペソアが直接駿府に赴くことを決議した。これはイエズス会士の勧告により実現しなかったが、このことで藤広とペソアの関係は悪化した。また、藤広は従来の慣行を破って取引方法を変更したり、持ち込んだ品を一方的に購入したりしたため、貿易を阻害されたポルトガル商人の反感を買っていた。そのため、ペソアはレイタンに自由貿易の保証を得ることも命じていたが失敗。オランダ人の対日貿易参加阻止もかなわず、日本船のマカオ寄港を禁じる同年7月25日(8月24日)付の朱印状を家康から下付されたにとどまった。 藤広は、マカオでの事件に対する報復を考えていた晴信を教唆し、ペソアの捕縛と商船捕獲とを家康に請願させた。晴信に伽羅木購入を委託していた家康は、報復行為によってポルトガル船貿易が断絶することを当初は懸念していたが、ポルトガルと同君連合(英語版)を組んでいたスペイン商人のマニラ船がポルトガル船に積載されていた生糸などを補完することを保証し、またオランダ船の継続的な来航も期待できるようになったため、晴信に許可を出した。 駿府からペソアに召喚の命が伝えられたが、身の危険を感じたペソアは要請を拒否して船に籠もり、積荷を載せたまま出港の準備を始めた。
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