暴動

暴動(ぼうどう、英: riot)とは、多数の市民・民衆が集合的に暴行・脅迫・破壊などの暴力的な活動を行うことである[1]。
分類
基本的に群衆が単に何らかの対象に対して集団的な暴力・脅迫を行う暴動は「騒乱」「騒擾(そうじょう)」と呼ぶ。これに対し、違法な手段によって国家の制度組織を破壊し変革する目的を持った大規模かつ組織的な暴動は「内乱」と呼ぶ。内乱が戦闘の形態となったら内戦となり、国家を代表する統治機関の政治権力を奪取することに成功すればクーデター・革命と呼ばれる。
特徴
多くは、議会や首長の投票や候補者の身の安全にかかわる問題、暗殺未遂などを発端に、なんらかの政治的要求ないしは経済的要求を標榜するが、指導者が不在であることが多いため体制側が警察・軍隊を出動させ暴動鎮圧を図ることによって、急速に沈静化していくことが多い。
また、デモやイベントなどでのトラブルにより、小規模な「暴動」が発生する場合もあるが、それが翌日にまで引き継がれる事は少ない。明確な指導者が不在であること(成り行きで起き、扇動者は不明に等しい)、参加者が多数であることなどのため、暴動を起こした(参加した)側の責任が厳しく追及されることはほとんどない。
現在の日本は諸外国に比べて比較的暴動は起きにくいとされている。しかし、それは外見的な話であり、オウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こした事に代表されるように暴動や革命を起こせるだけの組織は潜在的に存在し、様々な組織が公安警察の視察下に置かれている。日本の場合は「消極的なテロ」という形で表面化する。
日本国内では暴動を起こした場合、まず騒乱罪(1995年までは「騒擾罪」)に、さらに付随的に暴行罪・傷害罪・脅迫罪・器物損壊罪・現住建造物等放火罪・火炎びん処罰法違反・建造物侵入罪・公務執行妨害罪・凶器準備集合罪・暴力行為等処罰法違反などに問われる可能性がある(内乱を起こした場合、内乱罪となる)。
スポーツにおける暴動
スポーツ競技の試合においては、審判の判定や試合内容に対する不満などが原因となって観客が暴徒と化し、暴動に至るケースがみうけられる。
このようなケースは、海外においてはサッカーの試合において多く見られ、暴徒達はフーリガンと呼ばれる。
日本でのスポーツにおける暴動
日本においては、かつては野球(インブリー事件、木戸美摸投手負傷事件など)や競馬(園田事件など)において暴動が発生するケースがあったが、近年はあまり見られない(番狂わせを参照のこと)。
著名な暴動
世界の暴動
- ニューヨーク徴兵暴動(1863年、アメリカ合衆国)
- ヘイマーケット事件(1886年、アメリカ合衆国)
- 東ベルリン暴動(1953年、東ドイツ)
- ポズナン暴動(1956年、ポーランド)
- ワッツ暴動(1965年、アメリカ合衆国)
- 六四天安門事件(1989年、中華人民共和国)
- ロス暴動(1992年、アメリカ合衆国)
- 1997年アルバニア暴動
- 2005年パリ郊外暴動事件(フランス)
- クロナラ暴動(2005年、オーストラリア)
- ムハンマド風刺漫画掲載問題(2005年、中東)
- モルドバ暴動(2009年)
- イギリス暴動(2011年)
- ストックホルム暴動(2013年)
- チリ暴動 (2019年-2020年)(2019年)
- 2020年ミネアポリス反人種差別デモ (2020年、 アメリカ)
- 2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件(2021年)
日本の暴動
暴動及び鎮圧に用いられる非致死性兵器等
脚注
関連項目
- 食糧暴動 - 食料不足に起因して行われた暴動。米騒動、小麦粉戦争
外部リンク
騒擾事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 02:50 UTC 版)
岐阜電気は事業を拡大する過程で、1909年に岐阜市との間で報償契約を締結していた。その大要は、岐阜電気が市に対して毎年800円を報償金として納付するかわりに、市は岐阜電気の市内における独占的供給権を認める、というものである。独占権は実際に行使されており、佐見川の開発を目指す佐見川水力電気が岐阜市内に建設中の上毛モスリン(1915年竣工)への電力供給を目論むと、岐阜電気は報償契約に基づいて自社に独占的供給権があるとして佐見川水力電気の進出に対して強硬に反対し、計画断念に追い込んだ。しかしこうした岐阜電気の経営姿勢は、大株主である渡辺甚吉が岐阜商業会議所会頭を退いた1914年初頭ごろから世論の批判対象になっていった。 1914年1月29日、岐阜市会に一部の議員によって報償契約改訂についての建議案が提出された。電灯料金の引き下げや報償契約期間の短縮を求めるもので、2月2日に可決されると賛成派議員によって「報償契約改定同盟」が組織された。こうした市会の動きを機に岐阜電気は2月に電灯料金の値下げを発表した。改定後の料金は10燭灯で5銭減の月額67銭、16燭灯では15銭減の月額85銭とされ、同時に、従来の炭素線電球(発光部分に炭素線を用いる白熱電球)を廃してタングステン電球(発光部分にタングステン線を用いる白熱電球)を支給することとなった。このタングステン電球は消費電力が炭素線電球に比して3分の1と小さいことから、以前から需要家負担でタングステン電球を取り付ける場合に限り10燭灯の料金で20燭灯の利用を許可していた。これを倍燭制という。この倍燭制を料金改定と同時に廃止することとなったが、この措置はすでにタングステン電球を用いる需要家からすれば実質的な値上げになるとして、需要の過半を占める5燭灯の料金を月額47銭のまま据え置いたこととあわせて激しい批判を惹起した。 料金をめぐる紛争の発生をうけて、新聞記者団が会社と山田永俊市会議長ら「市民派」の間に立って仲裁を試みたが、意見の一致をみず5月に交渉は決裂し、「市民派」の運動はさらに過激なものとなっていく。まず5月27日、町総代会で市民大会の開催が決定され、6月7日に2000人が参加する市民大会が開催された。大会では山田永俊市会議長や前衆議院議員松野祐次郎、岐阜日日新聞社長匹田鋭吉らが演説し、料金値下げ反対の者を一切の公職に選挙しないという内容を議決して閉会した。その後値下げ運動は不買運動(廃灯運動)へと発展、6月末には市内の町のうち3分の2が消灯するという事態となった。商店では客が寄り付かないということで電灯を消灯し、社長の岡本太右衛門が関係する十六銀行でさえも消灯したという。 こうした状況下の7月2日、萬朝報の主筆茅原華山を招き7回目の演説会が開催された。午後9時40分ごろに演説会が終わると、参加者は暴徒化し街灯や渡辺甚吉邸の軒灯などを破壊し始めた。さらに電灯をつけていた旅館や会社側とみられていた濃飛日報社へと投石し、岡本太右衛門邸や岐阜電気本社へと押し寄せた。翌3日には加納町へ騒動が波及し、市内にいた群衆とともに再び岐阜電気本社を取り囲んで塀や建物の窓・障子を破壊した。4日にも暴動が起き変電所の放火未遂事件が発生した。 このような騒擾事件発生を機に島田剛太郎岐阜県知事が調停に乗り出した。また事件を最後に値下げ運動は終息に向かい、消灯運動も下火になった。9月28日、知事は電灯料金を値下げすること(新料金は5燭灯月額45銭・10燭灯62銭・16燭灯80銭など)、将来的な電気事業の公営化に応ずること、利益金から配当金その他を差し引いても残金が生ずる場合はそれを次年度の料金軽減に充当すること、という内容の調停案を提示し、事態を決着させた。
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