東峰十字路事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 15:29 UTC 版)
東峰十字路事件(とうほうじゅうじろじけん)は、新東京国際空港建設予定地内の空港反対派が所有する土地に対して千葉県が行った第二次行政代執行初日の1971年(昭和46年)9月16日、後方警備に派遣されていた神奈川県警察特別機動隊が極左暴力集団等による襲撃を受け、警察官3人が殺害され殉職した傷害致死事件である[1]。
注釈
- ^ 千葉県警が立案した計画では、代執行の対象となる5つの拠点をベテランの警視庁機動隊・千葉県警機動隊にまかせ、木の根から朝日台(古込)を結ぶ第一外周部を各県警の正規の機動隊が守り、更に外側の大清水・成田市営駐車場・成田駅・京成成田駅・十余三・東峰十字路や三里塚十字路等の主要交差点を一般署員部隊で守ることとされた[3]。
- ^ 警察庁のこの判断には、後藤田正晴警察庁長官が第一次代執行後に行われた上空からの現地視察で反対派を指して「蟷螂の斧」と述べたことが警察庁幹部の耳に入っていたことや、成田空港問題でリスクが高い千葉県警本部長にはノンキャリア組があてがわれ中央に「顔」が利かなかったことが影響しているともいわれている[4]。
- ^ 代執行前に常駐のセクトが出したパンフレットには、「城籠りは、外から援軍が来てこそ初めて包囲軍に勝てる。三つの城(団結小屋)を囲む城攻めの敵を"どこからか"包囲網を突破して、挟み撃ちにしてこそ、勝利がある。われわれは、この目的の為に、必要な方面で、機動隊に対する圧倒的殲滅戦を行い……」と書かれていた[7]。
- ^ 日本中国友好協会正統本部から派生した毛沢東思想を信奉するグループ[16]。
- ^ 公安調査庁 1993, p. 23では、「反帝学評、マルクス・レーニン主義者同盟、共産同を中心とした過激派と反対同盟青年行動隊で編成された約500人」とされている。
- ^ 裁判では、指示の意図は十字路の北にあった北林事務所ではなく、南側にあった"北林官舎跡"の奥の炭焼小屋を検索させるものであったと当時の警備課長が証言している[20]。
- ^ 事件後、一部のマスコミは「襲撃を受けた福島小隊員は、装備を外し、一部には靴まで脱いで休憩状態のものもいた」とあたかも部隊が現地で油断をしていたかのように報じた[2]。
- ^ 付近の農家に逃げ込んだ堀田大隊の隊員2人は、同家にいた学生らに物陰に連れ込まれ、農業用フォークで胸などを突かれたりスコップで殴られたうえ、防護服を剥ぎ取って縛り上げられて更にリンチを加えられている[25][26][27]。
- ^ 髪の毛が全て焼き切れるほどの重度の火傷を負った柏村巡査部長は、救援部隊に「福島隊長は大丈夫か」と言い続けながら息絶えた[29]。
- ^ 襲撃の一部始終を目撃したトラックの運転手は「オレも空港には反対なんだ。でも、きょうはひどすぎた。竹ヤリでアゴから口まで突きぬかれた隊員、ひとかかえもある丸太で二度も三度も背中を殴られた人、止めにはいるにもオレが殺されちゃいそうで……やっと連中がいなくなってから、けがの一番ひどそうな人を公団まで運んだんだ。運ぶ途中もその人は口や目、鼻から血が出っぱなしだった」と語っている[29]。
- ^ 現場周辺の山林や畑から、「反戦」「共闘」と書かれた黒ヘルメットや、「反戦青年委員会」「MW」「沖縄奪還、反帝反スタ」などと書かれた白ヘルメットが見つかっている。
- ^ 遺体を目の当たりにした公団職員らは臨時の祭壇を作り、殉職者の冥福を祈った[40]。
- ^ 1993年の公安調査庁刊行『成田闘争の概要』では、青年行動隊について「同盟員の血気盛んな子息を中心に組織された青年行動隊が、過激派集団と同様、反対派の先頭に立って暴力闘争を展開するに至ったことが、東峰十字路事件のような重大事犯の惹起につながった[46]」「46年9月の第2次代執行闘争阻止闘争では、過激派集団とともに機動隊を襲撃して3人を死亡させる東峰十字路事件を敢行し、集団暴力闘争の主役を演じた[47]」と述べられている。
- ^ 容疑者が処分保留で釈放されると再逮捕をしたため[50]。
- ^ 遺書より抜『俺は線が細いから、闘いにたえられなかったんだな。人間なんて弱いもんだな。なんかの本に書いてあったけど、もっとも人間らしく生きようと思っている人間が、なんで非人間的にあつかわれるのかな。本当に、国家権力ていうものは恐ろしいな。生きようとする百姓の生をとりあげ、たたきつぶすのだからな』。
- ^ 事件後も警察情報などを反対派に漏らす新聞記者がいた[57]。
- ^ 当時の千葉県知事であった友納武人は、背景には激しい取材競争があり、「取材記者個人の心の中のかっとうがあって、生やさしいものではないと思った」と述べている[58]。
- ^ 朝日新聞社出身の永栄潔は記者時代に、従来"反対派農民と支援学生との間に固い絆がある"と記事を書いていたにもかかわらず"農学連帯など初めからなく、農民は押しかけた過激派学生に嫌気がさしている"とするなど、東峰十字路事件の前後で自紙の論調が正反対になっていることを疑問に思い、千葉支局のベテラン記者に尋ねたところ、「(事実は)あそこ(事件直後の記事)に書いた通りなんだけど、これまでは書かせてもらえなかったんだよね。紙面の流れと違う記事は、ああした事件でも起きないと、書けないんだ。あのときは、Aさん(千葉支局デスク)が『書いていいぞ』と言ってくれたので書けた。いまは無理だな」と答えられている[63]。
- ^ 当初援農は、闘争で遅れた農作業を取り戻すための支援という位置づけであったが、周辺の空港公団が取得した用地までも支援の学生らに耕作させることで(当然違法耕作であり、税務署が捕捉できない。)私腹を肥やす農家も現れた[76]。公団名義の土地の耕作は"雑草駆除"を理由に"自主耕作"という名称で始められ、そこで得られた収益は部落会計に回されるはずだった[77]。空港公団はこれらの土地に対して牧草種の空中散布などにより対処していたが、1987年以降は取得済用地を物理的に囲い込み反対派を排除するとともに、表土を剥ぎ取って代替地へ輸送し、移転者の営農の便宜を図った[78]。
- ^ 8月21日に、革命左派(京浜安保共闘)のメンバーが逮捕され、青年行動隊メンバーとのつながりを示すメモが見つかった[96]。翌日に警察がその反対同盟員の家宅捜査が行ったところ、革命左派の女性オルグが滞在しているのが見つかった。連合赤軍を結成した革命左派と赤軍派は、事件2日前に共同の集会を開き「三里塚で爆弾ゲリラを結合させよう」と公然と扇動していた[96]。
- ^ 革命左派が雲取山に設けた山岳ベースには、反対派農家が米や野菜を運んでいた[97]。
- ^ なお、後に革命左派の永田洋子とともに山岳ベース事件を引き起こした赤軍派の森恒夫は、東峰に常駐していた[98]。元反対同盟事務局次長元熱田派事務局長が、森・永田のほかに大槻節子等セクト内のリンチで死んだ活動家らが過去に三里塚を出入りしていたことや、青年行動隊員らに大菩薩峠事件として知られることになる軍事訓練への参加の勧誘があったことを認めている[99]。
- ^ 三里塚闘争関係の公安事件の判決では、長期勾留・裁判の長期化や、被告人の行為が私利私欲によるものではないことなどの事情が(被告に有利な)量刑要素として考慮される傾向があった。これに対して公安警察からは、身柄勾留が長期間に及んだのは、被告人が法廷闘争をしたからにすぎず、「寛刑化の流れ」は、法廷闘争と社会運動を助長しかねないと批判が出ている[103]。
- ^ 1990年(平成2年)12月17日判決[106]。
- ^ 上述の顎を砕かれ100針を縫う重傷を負った元隊員は、「主義主張を乗り越え、人間として献花して下さったのは、いいことだと思う」と語った[22]。
出典
- ^ a b 警備研究会 2017, p. 164.
- ^ a b c d e f g h i j 佐藤 1978, pp. 100–124.
- ^ 佐藤 1978, p. 107.
- ^ 佐藤 1978, pp. 109–110.
- ^ a b c 衆議院 地方行政委員会. 第66回国会. Vol. 第4号. 23 September 1971.
- ^ 大坪 1978, p. 130.
- ^ 佐藤 1978, p. 103.
- ^ 朝日新聞 1998, pp. 44–45.
- ^ a b “成田闘争 "死者"生んだ背景”. 朝日新聞: 4. (1971-09-17).
- ^ a b 「非情、狂暴―学生ゲリラ 機動隊せん滅宣言 過激集団、超エスカレート」『読売新聞 夕刊』、1971年9月16日、10面。
- ^ a b 「"死闘路線"走る過激派」『毎日新聞』1971年9月17日、3頁。
- ^ “平気で「殺人」を口に 革命家気取りの冷酷さ”. 朝日新聞: 23. (1971-09-17).
- ^ a b c 『読売新聞 朝刊』、1971年9月17日。
- ^ 伊佐 1988, pp. 32–52.
- ^ a b c d e f 事件簿40年史 2001, pp. 42–46.
- ^ 桑折 2013, p. 62.
- ^ 桑折 2013, p. 68.
- ^ a b 「火の不意打ち、鉄棒の雨」『読売新聞(夕刊)』1971年9月16日、11頁。
- ^ a b c d e 「前は竹ヤリ、後ろは炎」『読売新聞』1971年9月17日、14頁。
- ^ 伊佐 1988, p. 40-46.
- ^ “三方から不意打ち 倒れると学生数人がかり”. 毎日新聞: 22. (1971-09-17).
- ^ a b 「36年経て 同じ地平に」『読売新聞(千葉版)』、2007年12月26日、27面。
- ^ 飯高 1976, p. 189.
- ^ “若き巡査、惨状に絶句 「膝交え話すべきだった」 元県警警察官・唐鎌茂夫さん(73) 成田東峰十字路事件半世紀”. www.chibanippo.co.jp. 千葉日報 (2021年9月17日). 2021年10月11日閲覧。
- ^ 大坪 1978, pp. 145–146.
- ^ a b 「犯人割出しに手がかり」『朝日新聞』1971年9月18日、3頁。
- ^ 「成田の反対同盟員宅から血染めのシャツ 警官暴行容疑で逮捕」『朝日新聞 夕刊』、1971年9月25日、11面。
- ^ 戸村一作『わが三里塚―風と炎の記録』田原書店、1980年、75頁。ASIN B000J8A3R8。全国書誌番号:80018622。
- ^ a b c “成田代執行、警官三人死ぬ”. 毎日新聞: 1. (1971-09-16).
- ^ a b 『朝日新聞 夕刊』、1971年9月16日。
- ^ a b 朝日新聞 1998, p. 54.
- ^ a b 大坪 1978, p. 134.
- ^ a b 飯高 1976, p. 191.
- ^ a b 朝日新聞 1998, p. 45.
- ^ 事件簿40年史 2001, p. 42.
- ^ 大坪 1978, p. 144.
- ^ 「間に合わせ警備」『読売新聞(夕刊)』1971年9月16日、10頁。
- ^ 大和田・鹿野 2010, pp. 34–37.
- ^ a b 原口 2002, pp. 53–54.
- ^ 大和田・鹿野 2010, p. 37.
- ^ a b “成田激震 余波続く”. 朝日新聞(夕刊): 11. (1971-09-17).
- ^ 『毎日新聞 夕刊』、1971年9月17日。
- ^ “殉職の警官二階級特進”. 朝日新聞: 1. (1971-09-17).
- ^ “殉職三警官に「勲功章」”. 朝日新聞: 3. (1971-09-18).
- ^ 「"ゲリラ"に振り回された警備陣 "足跡"追っては見失う」『朝日新聞』1971年9月17日、3頁。
- ^ 公安調査庁 1993, p. 24.
- ^ 公安調査庁 1993, p. 147.
- ^ “中核派けさ捜索”. 毎日新聞: 1. (1971-09-17).
- ^ a b 大坪 1978, pp. 144–146.
- ^ 原口 2002, p. 52.
- ^ 伊佐 1988, p. 198.
- ^ 鎌田 1985, p. 305.
- ^ 朝日新聞 1998, pp. 38, 42.
- ^ 大和田・鹿野 2010, pp. 129–130.
- ^ a b c d e f 隅谷 1996, pp. 46–56.
- ^ 前田 2005, p. 40.
- ^ 伊藤 2017, p. 68.
- ^ a b 友納武人『疾風怒濤 : 県政二十年のあゆみ』社会保険新報社、東京、1981年10月、212頁。doi:10.11501/9773996。OCLC 673358043。
- ^ 福田 2001, p. 174.
- ^ 『週刊少年ジャンプ』 1971年18号。
- ^ a b 北原 1996, p. 80.
- ^ 朝日新聞 1998, p. 48.
- ^ 永栄潔『ブンヤ暮らし三十六年』新潮社、2018年2月1日、96-100頁。ISBN 9784101211060。
- ^ 福田 2001, p. 179.
- ^ 朝日新聞 1998, p. 55.
- ^ a b 桑折 2013, pp. 75–76.
- ^ 「過激派学生に頭がいっぱい」『朝日新聞』1871年9月17日、2頁。
- ^ “「無用の流血惨事」野党がそろって非難談話”. 毎日新聞(夕刊): 2. (1971-09-16).
- ^ a b c 「"殺人で何を守る" 討論集会 夜の盛り場、怒る市民」『読売新聞』、1971年9月17日、14面。
- ^ 「"狂ったゲバ"に市民の怒り」『朝日新聞』、1971年9月17日、23面。
- ^ “「なぜ警察官を殺した」宵の渋谷駅前で乱闘”. 朝日新聞: 3. (1971-09-18).
- ^ 北原 1996, p. 81.
- ^ 伊藤 2017, pp. 69–70, 193, 206.
- ^ a b 原口 2000, pp. 191, 204.
- ^ 福田 2001, pp. 194–195.
- ^ 前田 2005, pp. 40–41.
- ^ 福田 2001, p. 44.
- ^ 公安調査庁 1993, pp. 72–73.
- ^ 福田 2001, pp. 195–196.
- ^ 朝日新聞 1998, p. 93.
- ^ 伊藤 2017, p. 92.
- ^ 福田 2001, pp. 194–196.
- ^ 大和田・鹿野 2010, p. 76.
- ^ 大坪 1978, pp. 134–135.
- ^ “千葉の歴史検証シリーズ30 成田国際空港「血と涙の歴史」8 泥沼と化した収用地、続出する重軽傷者”. 稲毛新聞. (2005年2月) 2020年11月10日閲覧。
- ^ 第068回国会法務委員会第9号 1972年4月18日、2017年3月閲覧。
- ^ 伊佐 1988, p. 54.
- ^ 樋口晴彦 (2012年10月25日). “【樋口晴彦 危機管理の具体論】 最悪の状況で踏みとどまらせるもの”. 日経XTECH. 2020年10月19日閲覧。
- ^ 伊佐 1988, p. 66.
- ^ 原口 2002, pp. 129–130.
- ^ 桑折 2013, p. 70.
- ^ シンポジウム記録集編集委員会 1995, p. 331.
- ^ 公安調査庁 1993, p. 23.
- ^ “「死亡は当然、今後も手段選ばぬ」”. 毎日新聞: 22. (1971-09-17).
- ^ 飯高 1976, pp. 193–194.
- ^ a b 大坪 1978, pp. 127, 129.
- ^ “「三里塚のイカロス」代島治彦監督に聞く「あの時代の悪霊を、もう蘇らせたくない」”. 映画の森 (2017年9月9日). 2017年9月10日閲覧。
- ^ 桑折 2013, p. 35.
- ^ 伊藤 2017, p. 123.
- ^ 植垣康博『兵士たちの連合赤軍』彩流社、2001年
- ^ a b c d e 大和田・鹿野 2010, pp. 49–55.
- ^ a b 『判例特報』判例時報社〈判例時報〉、1988年1月1日、3-54頁。
- ^ 許仁碩「公安警察と治安判決(1980-2010) : 先制的デモ規制体制の確立」北海道大学 博士論文(法学)甲第14148号、2020年、doi:10.14943/doctoral.k14148、NAID 500001398899。
- ^ a b 桑折 2013, p. 114.
- ^ 朝日新聞 1998, pp. 56–57.
- ^ a b “平成3(あ)148”. www.courts.go.jp. 裁判所. 2021年9月14日閲覧。
- ^ シンポジウム記録集編集委員会 1995, p. 326.
- ^ 隅谷 1996, p. 175.
- ^ 「「共生」に安堵と期待と」『朝日新聞(千葉版)』1994年10月12日、31頁。
- ^ 朝日新聞 1998, pp. 46.
- ^ a b “千葉の歴史検証シリーズ50 「成田国際空港反対闘争」続編”. 稲毛新聞. (2007年8月) 2020年11月10日閲覧。
- ^ 「【ニュースの深層】成田空港反対闘争、煽って逃げた社会党 テロ集団を育てたといっても過言ではない 小川国彦氏の死去に思う」『産経新聞』、2017年5月28日。
- ^ “「崇高な精神継承」 東峰十字路事件半世紀 千葉県警、20年ぶり慰霊祭”. www.chibanippo.co.jp. 千葉日報社 (2021年9月16日). 2022年4月27日閲覧。
- ^ “警官3人死亡「東峰十字路事件」から50年 顕彰碑前で慰霊祭”. 毎日新聞 (2021年9月16日). 2022年4月27日閲覧。
固有名詞の分類
- 東峰十字路事件のページへのリンク