長州藩校明倫館の教授として
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「加藤桜老」の記事における「長州藩校明倫館の教授として」の解説
文久2年(1862年)、長州藩主毛利敬親から笠間藩主牧野貞直へ長州藩の藩校の教授に迎えたいとの要請があり受諾された。江戸の長州藩邸で講師となった桜老は文久3年(1863年)1月に京に上るよう要請を受け、京都の長州藩邸に入る。 その後、八月十八日の政変により長州に移った桜老は、明倫館の教授の傍ら『忠節時蹟』の編さんに関わる。また、兵制、内政、外政などの時局論である『藩兵備考』『謀野草議』『学術論』を執筆する。 慶応3年(1867年)には山口の郊外に私塾「詠帰塾」を開き、水戸学の講義を行ったり、時には琴やオルガンを演奏して楽しませながら指導していたという。
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