長州防衛戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
元治元年(1864年)、長州藩では軍を率いて上洛するという声が盛んになった。山縣は岡山藩・広島藩と連携するべきと考えていたが、容れられなかった。6月には池田屋事件が京都で発生、旧友の杉山が命を落とした。長州の藩論は激高し、久坂玄瑞や入江九一などが京都に潜入した。山縣も上洛を願い出たが、下関海峡の警護が重要であるとして、藩主命令で差し止められた。7月19日には禁門の変が発生し、久坂と入江ら同門の友人たちが命を落とした。 さらに8月には下関海峡を四カ国連合艦隊が襲撃した。この下関戦争で、山縣は壇ノ浦砲台で外国艦隊相手に応戦したが、装備で大きく差がついた外国勢に敵わず敗北している。さらに第一次長州征討をうけたことで、幕府に恭順しようとする椋梨藤太ら俗論派が台頭した。これに高杉ら正義派は反発し12月に挙兵した(功山寺挙兵)。総管赤禰は俗論派との話し合いを考えており、山縣は反乱が時期尚早と考えていたため同調しなかった。しかし俗論派によって正義派の前田孫右衛門ら(甲子殉難十一烈士)が斬罪にされたことで、奇兵隊をふくむ諸隊では反俗論派の声が高まった。翌元治2年(慶応元年、1865年)1月2日、赤禰が奇兵隊を脱走し、山縣が事実上奇兵隊を掌握した。1月5日には高杉を支援することを決め、以降は俗論派との戦闘で次々に勝利を収め、正義派を勝利に導いた。しかし2月6日頃から病気となり、5月6日に一旦軍監を免じられ、一ヶ月後に復帰している。またこの年の3月、山縣を育て上げた祖母が、山縣から贈られた反物で作った着物を纏って入水自殺を遂げた。後年、山縣は祖母が足手まといになってはならないと考えて自殺したのではないかと推測している。 慶応2年(1866年)の第二次長州征討では奇兵隊の実権を握り、高杉の海軍と協力して小倉を占領する活躍を見せた。その後7月27日の赤坂・鳥越の戦いなどでは小倉藩兵の抵抗に苦しめられるなど、12月28日の和睦まで最激戦地の小倉口を戦い抜いた。慶応3年(1867年)2月、山縣は木戸孝允の支配下として京都と摂津の間で事情探索を行うことを命じられた。しかし死の床にあった高杉に引き止められてすぐには出発せず、4月に逝去した高杉の葬儀を済ませ、5月2日に上洛した。京都では薩摩藩の倒幕派である西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆らと交流を結んだ。国父島津久光や家老小松清廉とも面会し、薩長の連携計画を打診したが、倒幕計画のリスクをためらっていた薩摩上層部からははかばかしい返事は得られず、6月に帰藩した。上洛前の4月に庄屋の娘・友子と結婚、帰藩した7月に式を挙げている。 その後11月まで薩摩藩が倒幕への動きを見せず、山縣は疲労と心労で病気となり、7月には一時軍監を免じられている。11月17日、討幕の密勅を受けた薩摩藩主島津茂久が長州の三田尻港に到着し、11月25日に薩長連合軍が京都に向けて出港した。しかし山縣ら奇兵隊本隊は本営のある長州吉田に残り、翌慶応4年(明治元年・1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いには参加できなかった。
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