甲子殉難十一烈士とは? わかりやすく解説

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甲子殉難十一烈士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/10 03:23 UTC 版)

甲子殉難十一烈士(きのえねじゅんなんじゅういちれっし)は、江戸時代末期(幕末)の1864年元治元年)、江戸幕府による第一次長州征伐に際し長州藩内の主導権を握った俗論党によって、萩の野山獄で処刑された長州藩士11人を総称した名称。




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甲子殉難十一烈士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)

功山寺挙兵」の記事における「甲子殉難十一烈士」の解説

12月18日萩藩政府渡辺内蔵太楢崎弥八郎山田亦介大和国之助前田孫右衛門松島剛蔵毛利登人正義派重鎮7人を捕らえ野山獄送った防長回天史によれば七人捕囚巡見使長谷川の意を汲んだものと言われ萩藩政府長谷川の助言従い7人を殺害する意図であった滞留していた喜多岡らは俗論派強硬姿勢驚き長谷川萩藩政府に7人の助命嘆願した聞き入られなかった。喜多岡は小倉にいた西郷危急知らせ急使を送るとともに岩国にへ向かった吉川通じて7人の助命嘆願をするためであった。 後に小倉にて急使から事情聞いた西郷即座に岩国向かった。他にも小倉在していた若井鍬吉、加藤司書らが、状況確認為に総督府広島本営向かった12月19日萩藩政府は、野山獄捕らえていた渡辺内蔵太楢崎弥八郎山田亦介大和国之助前田孫右衛門松島剛蔵毛利登人正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。(甲子殉難十一烈士)。 公爵山縣有朋伝によるとこの処置は、諸隊接近高杉挙兵の報が達し俗論派諸隊萩へ到着すれば野山獄破り正義派高官奪還するものと考え殺害したとする。萩藩政府はニ卿に急使送り伊佐にて急使面会した二卿は行き断念し長府引き返したが、諸隊正義派処刑聞き激高し伊佐留まる事を決めたという。また俗論派領民対し諸隊への支援禁止する布告出したが、領民概ね正義派支持しており、諸隊宿泊する家屋人夫食料などの提供を積極的に行ったという。 これも上述通り防長回天史等の史料において7人の殺害については巡見使長谷川意向強く働いたという記述があり、矛盾生じている。どちらが正しいかは不明であるが、他史料には伊佐に7人殺害の風聞届いたのは23日という記述もある。

※この「甲子殉難十一烈士」の解説は、「功山寺挙兵」の解説の一部です。
「甲子殉難十一烈士」を含む「功山寺挙兵」の記事については、「功山寺挙兵」の概要を参照ください。

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