甲子殉難十一烈士
甲子殉難十一烈士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
12月18日、萩藩政府は渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、松島剛蔵、毛利登人の正義派重鎮7人を捕らえ、野山獄に送った。防長回天史によれば、七人の捕囚は巡見使長谷川の意を汲んだものと言われ、萩藩政府は長谷川の助言に従い7人を殺害する意図であった。萩に滞留していた喜多岡らは俗論派の強硬姿勢に驚き、長谷川や萩藩政府に7人の助命を嘆願したが聞き入られなかった。喜多岡は小倉にいた西郷へ危急を知らせる急使を送るとともに岩国にへ向かった。吉川を通じて7人の助命嘆願をするためであった。 後に小倉にて急使から事情を聞いた西郷は即座に岩国に向かった。他にも小倉に在していた若井鍬吉、加藤司書らが、状況確認の為に総督府広島本営へ向かった。 12月19日、萩藩政府は、野山獄に捕らえていた渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、松島剛蔵、毛利登人の正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。(甲子殉難十一烈士)。 公爵山縣有朋伝によるとこの処置は、諸隊の萩接近と高杉挙兵の報が萩に達し、俗論派は諸隊が萩へ到着すれば野山獄を破り正義派高官を奪還するものと考え殺害したとする。萩藩政府はニ卿に急使を送り、伊佐にて急使と面会した二卿は萩行きを断念し長府に引き返したが、諸隊は正義派の処刑を聞き激高し、伊佐に留まる事を決めたという。また俗論派は領民に対し、諸隊への支援を禁止する布告を出したが、領民は概ね正義派を支持しており、諸隊の宿泊する家屋や人夫、食料などの提供を積極的に行ったという。 これも上述の通り、防長回天史等の史料において7人の殺害については巡見使長谷川の意向が強く働いたという記述があり、矛盾が生じている。どちらが正しいかは不明であるが、他史料には伊佐に7人殺害の風聞が届いたのは23日という記述もある。
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