イランと中央アジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 09:51 UTC 版)
歴史時代:イルハン朝、セルジューク朝、ジョチ・ウルス、ティムール朝 10世紀のイランとインド北部では、ターヒル朝、サーマーン朝、ガズナ朝、ゴール朝が覇権を争った。そのため美術は隣人から抜きん出るための不可欠な手段となっていた。ニーシャープールやガズニーのような大きな街が建設され、またエスファハーンの金曜モスクが作られたのもこの時期である。墳墓建築が発達し、また陶工は黄色の地に万華鏡のような装飾や、有彩の釉薬の流れた跡や釉の上と下の双方に施されたスリップ(英語版)(エンゴーベ)で構成された碧玉文様の装飾を施し1つ1つが大きく違う作品を作り出した。 トルコ(モンゴル国も含む)を起源とする遊牧民であったセルジューク朝が10世紀の終わり頃にイスラーム世界に急激に広がった。セルジューク朝は1048年にバグダードを占領し、1194年にはイランにおいては滅亡したが、その名を持つ品物の生産が12世紀末から13世紀初頭にかけても行われており、これは独立したより小規模な君主たちのためのものだったのであろう。中庭の4辺にイーワーンを持つイラン様式のモスクが初めて出現したのはセルジューク朝時代であった。石英の粉に白い粘土と釉薬の粉を混ぜた人工胎土(ストーン・ペースト)により陶器を白く薄く作ることが可能になり、カーシャーンでは色彩豊かなミーナーイーシュもしくはハフト・ランギの陶器が作られペルシア陶器は黄金期を迎えた。またブロンズに貴金属を象嵌することも行われた。 13世紀には中央アジアからモンゴル帝国がイスラーム世界に襲来した。チンギス・カンの死後に帝国は分割され、中国では元、イランから西アジアにかけてはイルハン朝が成立し、イラン北部は「黄金のオルド」(ジョチ・ウルス)の遊牧民らが支配した。イルハン朝の美術は、元の皇帝から独立した小ハーンたちの下で発達した。モンゴル人たちが定住化するにつれ建築も活発になっていったが、遊牧民の伝統も残り、それは建物を南北に向けることなどに現れた。しかし著しいペルシア化や、イラン様式として既に確立されていた形式の再来もまた見られる。ソルターニーイェにあるオルジェイトゥの墓はイランで最も大きく堂々とした建造物の1つである。宰相ラシードゥッディーンによって編纂された『集史』のような重要な写本を通じてペルシアの写本芸術が誕生したのも、イルハン朝の下であった。陶芸ではラージュヴァルディーナ彩やスルターナバード彩をはじめとする新技法が出現した。イルハン朝の工房は多民族の職人で構成され、モンゴル人は中国の文物に慣れ親しんでいたため、中国の影響が見出される。 イラン北部の遊牧民の美術については、わずかしか知られていない。ようやく関心を向けはじめた研究者たちは、これらの地域に都市計画と建築が存在していたことを発見した。金銀細工も大いに発展しており、その作品の大部分には中国からの強い影響が見られる。イルハン朝の宮殿跡からはラスター彩が多数発見されており、そのモチーフに龍や鳳凰も使われていることから、中国美術の影響がモンゴル帝国を通じて伝わっていたことが分かる。 遊牧民からの3度目の侵略はティムールの軍勢によるもので、これは中世イラン3番目の重要な時代を打ち立てた----ティムール朝である。15世紀におけるこの王朝の発展にともない、特にヘラートへの遷都後にはビフザードらの画家や、数々の中心地と庇護者たちによってペルシアの写本芸術は頂点に達した。 サマルカンドの建造物などから知られるペルシアの建築と都市計画も黄金時代を迎えた。タイルによる装飾やムカルナスのドームがとりわけ見事である。二重殻のドームと、マドラサ建築の定型化という改革て公共建築の量産化も進んだ。写本芸術および中国の美術の強い影響は他のあらゆる領域にも見出される。ティムール朝時代における写本芸術とペルシア美術の結び付きは、後のサファヴィー朝におけるペルシア美術の飛躍を可能にした要素の1つである。
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