写本芸術
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14世紀までナスル朝を含むアンダルス及びマグリブでは、クルアーン写本の素材に東方イスラーム諸国では11世紀頃までには紙が主流となっていたのとは異なり、獣皮紙が主に用いられていた。また、その書体も12世紀までには完成したこの地域特有のマグリビー体(英語版)で書かれ、さらにその装飾も幾何学文様が用いられ続けた。
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写本芸術
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ウィキメディア・コモンズには、イスラームの写本に関連するカテゴリがあります。 詳細は「アラブの写本芸術(フランス語版、ドイツ語版)」、「ペルシアのミニアチュール(フランス語版)」、および「ムガル絵画」を参照 イスラームの写本芸術(フランス語版)は絵画、カリグラフィー、ミニアチュール(余白や扉に描かれる装飾や図案)、装幀を全て含めたものである。 第3代正統カリフのウスマーンの時代にクルアーン写本が完成した。クルアーン写本には挿絵は描かれなかったが、6書体による美麗なカリグラフィー、幾何学・植物文による装飾、芸術的な装幀が施された。中世に科学がよく発達したイスラーム圏では天文学や力学など科学書の写本も盛んに作られ、アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィーの『恒星論』の1009年の写本が現存する最古の挿絵入り写本である。他にも、イブン・バフティーシュー(英語版)が人間・鳥獣・魚・虫などを研究した『動物の効用』(11世紀)や、自動機械の仕組みを解説したジャザリーの『巧妙な機械装置に関する知識の書』(1206年)などの学術書に挿絵が付けられた。 写本は工房で製作され、書家の他に挿絵画家、装飾家、製本家が分業で作業した。イスラーム世界の製紙や製本は、アンダルス時代のスペインや、イタリアの都市国家を経由してヨーロッパにも伝わった。挿絵入りの写本はアラブ圏では14世紀に衰退が起きた一方、ペルシア圏では宮廷書画院(ケターブ・ハーネ)の下で物語や歴史書の挿絵入り写本が開花し、イスラーム絵画の主要な舞台となった。写本の製本技術は15世紀のティムール朝の首都ヘラートで頂点を迎えた。特にシーラーズでは家内工業として写本製作が行われたといわれる。ティムール朝の写本芸術は、サファヴィー朝(ペルシア)、ムガル朝(インド)、オスマン朝(トルコ)にも影響を与えた。 伝統的に、写本芸術は3つの領域に分けて考えられてきた。シリア、エジプト、ジャズィーラ、マグリブ、それからオスマン(オスマンは別の領域とも考えられる)の写本に対応する「アラブ」、特にモンゴル時代以降のイラン世界で作られた写本に対応する「ペルシア」、そしてムガル帝国の作品に対応する「インド」である。それぞれの領域には特有の様式があり、それはさらに独自の芸術家たちや慣習などを持つ相異なった流派に分かれる。諸流派やさらには地理的領域の間での、政治状況の変化や芸術家の頻繁な移動(特にペルシアの芸術家はオスマンやインドに多く移住した)による影響関係が存在したことは明らかであるが、それぞれの変遷は並行して進行していた。 なお中国から伝来した製紙は、10世紀にはイスラーム世界に定着し写本繁栄の礎となったが、アラビア文字の組版の困難さやカリグラフィーの重視のため印刷術の導入は18世紀まで遅れた。 クーフィー体で書かれたクルアーン写本(49:11)。9世紀 ボドリアン図書館所蔵のアブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー『恒星論』の1009年の写本より「アンドロメダ座」 シャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメ(フランス語版)。1537年頃 ビフザード画「ユースフの誘惑」。サアディー『果樹園(ペルシア語版、英語版)』(ブースターン)の写本より。1488年
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