サファヴィー朝とガージャール朝
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「イスラム美術」の記事における「サファヴィー朝とガージャール朝」の解説
十二イマーム派の王朝であるサファヴィー朝(1501年-1736年)の美術は、陶芸と金属工芸に大きな変化が起き、16世紀以降は高価な素材ではなく色のついた生地を埋め込むようになった。専門家の中には、16世紀には金属工芸が衰退したとする者もある。陶芸では中国の磁器が高く評価され、写本芸術や絨毯においては中国的なモチーフを青と白で表現した。建築が繁栄し、第5代シャーのアッバース1世はエスファハーンに新都を計画し、数多くの庭園、アリ・カプ(フランス語版)のような離宮、シャー・モスク(フランス語版)などが建てられた。 写本芸術は、250以上もの絵画を含む巨大な写本であるシャー・タフマースプの偉大なるシャー・ナーメ(フランス語版)によってその頂点を迎えた。17世紀になると王族が高価な装飾写本をあまり注文しなくなり、ムラッカア(英語版)(アルバム絵)と呼ばれる新しい種類の絵画が発達した。これはさまざまな芸術家たちが絵やデッサンやカリグラフィーを紙葉に描き、それを愛好家が集めてアルバム(画帖)にするものである。この新しい美術形式を代表する画家の1人にリザー・アッバースィーがいる。 サファヴィー朝の滅亡による1世紀の混乱を収拾したガージャール朝(1796年-1925年)では、首都テヘランの発展と共に壮大な建築も建設された。ガージャール朝の絵画は西洋の強い影響を受けており、油絵によるシャーたちの肖像画には、ミニアチュールの作法の名残は多少あるにせよ、それまでのペルシア絵画とはほとんど関係のないものとなっている。
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