サファヴィー朝の滅亡とアフシャール朝
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「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「サファヴィー朝の滅亡とアフシャール朝」の解説
オスマン帝国によってイラクを失って以後のサファヴィー朝は次第に衰えていった。18世紀に入ると衰退は決定的となり、クルディスタンのクルド人、バローチスタンのバローチ人など辺境の民族が相次いで反乱を起こした。特にアフガニスタンでアフガン人(パシュトゥーン人)のミール・ワイス(英語版)が1709年に起こした反乱は、カンダハールにアフガン政権を自立させるに至った。 1719年、ミール・ワイスの子ミール・マフムードはイラン本土への進軍を開始しケルマーンを攻略、1722年には首都エスファハーンを包囲して王(シャー)フサインは退位、マフムードに降伏した。これに対し、オスマン帝国とロシア帝国が干渉に踏み切り、イラン侵攻を開始して情勢は混乱をきわめた。 同年、フサインの子タフマースブ2世が古都カズヴィーンで即位し、アフガン人への抵抗を開始したが、諸勢力の攻勢の前に逃亡を余儀なくされた。やがてホラーサーン地方に居住していたクズルバシュのアフシャール部族を率いたナーディル・クリー・ベグがタフマースブを庇護して、その摂政となり、アフガン人勢力やオスマン帝国を破ってサファヴィー朝の旧領の大半を回復した。1736年、ナーディルはタフマースブの子アッバース3世を退位させ、ナーディル・シャーと称してアフシャール朝を開いた。 ナーディル・シャーは、短い期間ではあるものの、アナトリア東部からイラン、中央アジア、インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れたため、イラン史では一代の梟雄とされ、その武勇により「ペルシアのナポレオン」、「第二のアレクサンドロス」と呼ばれることがある。アフシャール朝は18世紀末までつづくが、ナーディル・シャーの暗殺後は群雄割拠の時代がつづいた。
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