群雄割拠の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
詳細は「セルジューク朝アルメニア(ペルシア語版)」、「ザカリア朝アルメニア(フランス語版)」、「イルハン朝アルメニア(英語版)」、および「モンゴルのグルジア侵攻」を参照 しかし、衰亡しつつある東ローマはセルジューク朝の台頭に抵抗できず、そのアルメニア支配も持続はしなかった。セルジューク朝テュルクの軍勢は1048年からアルメニアに侵入し始め、1064年にはアニを急襲し、陥落させた。1071年のマラズギルトの戦いでのセルジューク朝の勝利によって、セルジューク朝によるアルメニア支配は決定的なものとなった(この際にも、アルメニア人の大規模なディアスポラ化が発生した)。しかし、スルタンのマリク・シャーは商業や芸術の振興、インフラの建設、外国語文化の保護といった政策をとったため、アルメニア人の商活動は一層の活発化をみせた。 このセルジューク朝も1194年には滅び、その後アルメニアは一時のホラズム・シャー朝支配期を経て、モンゴル帝国の地方政権であるイルハン朝の版図に入った。同時期には、北部のグルジア王国に保護されていたわずかな領域も、その安定の時を終えた。アルメニアはモンゴル皇帝モンケ・ハンに臣従することで、イルハン朝とも間接的に友好を結んだ。しかし、やがてイルハン朝がイスラーム化するとアルメニアはすさまじい弾圧を受け、さらに14世紀のティムールの西アジア遠征に際しても、アルメニア人たちはスィヴァスで兵士を生き埋めにされ、幼児を皆馬で踏み殺されるなどの殺戮にあった。それが過ぎるや、次にアルメニアは1世紀にわたって黒羊朝と白羊朝による争いの舞台とされ、苦難の時代は続いた。 この時代、アルメニアにおいてあらゆる政治組織は壊滅したが、一方で、維持された交易路による商人への富の蓄積や、ノラヴァンク(フランス語版)、ホラケルト修道院(フランス語版)、アレニ教会(ドイツ語版)、イェグヴァルド教会(英語版)といった教会建築の新造は続けられた。また、数多の侵略の結果としてアルメニア人は多くの言語を身に着け、交易の場や宮廷においてしばしば通訳として活躍した。
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