サファヴィー朝建国以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:15 UTC 版)
「イスマーイール1世」の記事における「サファヴィー朝建国以前」の解説
しかし、白羊朝はサファヴィー教団の社会的影響力を恐れて教団を攻撃し、祖父ジュナイド、父ハイダル、兄シャイフ・アリーは白羊朝との戦いで落命した。1494年にシャイフ・アリーが獄死した後に、イスマーイールが教主の地位に就き、カスピ海南岸のギーラーン地方に潜伏した。12歳までの間、イスマーイールはギーラーン地方のラーヒージャーン(英語版)で現地の有力者の保護を受け、白羊朝が政治的に安定を失った1499年にイスマーイールは潜伏地のラシュト(ギーラーン地方の中心都市)を出発した。アナトリア半島各地のキジルバシ(トルコ系遊牧民のサファヴィー教信徒)に決起を促し、集合地とされたエルズィンジャンには7,000人のキジルバシが集まり、彼らは「無謬の救世主」であるイスマーイールに無私の忠誠を誓った。イスマーイールはキジルバシを率いて東に進み、各地で白羊朝の軍隊に勝利する。1501年の秋にサファヴィー教団は白羊朝の首都であるタブリーズに入城し、イスマーイールはタブリーズのモスクでシーア派の一派である十二イマーム派を信仰することを宣言した。当時のタブリーズの住人の3分の2はスンナ派であり、周囲からはシーア派を信奉する君主が受け入れられるか不安視する声も上がったが、イスマーイールは信仰の決意を貫いた。 一般にタブリーズの入城をもってサファヴィー朝が成立したとみなされている。
※この「サファヴィー朝建国以前」の解説は、「イスマーイール1世」の解説の一部です。
「サファヴィー朝建国以前」を含む「イスマーイール1世」の記事については、「イスマーイール1世」の概要を参照ください。
- サファヴィー朝建国以前のページへのリンク