サファヴィー朝との戦いとは? わかりやすく解説

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サファヴィー朝との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:19 UTC 版)

ムラト4世」の記事における「サファヴィー朝との戦い」の解説

秩序乱れた帝国問題解決するべく取り組み始めオスマン・サファヴィー戦争(1623-1639)では、1624年サファヴィー朝アッバース1世バグダードを含むイラク奪われる奪還を試んだ。1625年大宰相イラク派遣してバグダード攻撃したあと一歩のところでアッバース1世率い増援隊が到着したため、モースルへと撤退した1629年には大宰相のガジ・ヒュスレフ・パシャのもと、バグダード奪還する作戦が再び開始したが、厳しい冬と洪水によって戦果挙げられなかった。しかし翌年にはケルマーンシャー近くサファヴィー軍を撃破することに成功しハマダーン占領したその勢いでバグダードを再び包囲したが、この時も厳しい冬が襲って来ていたため、結局攻略できずに撤退した。これ以降サファヴィー朝バグダード支配確固たるものとなった1635年ムラト率いオスマン軍エレヴァンへと進軍し、これを征服した。この勝利余勢を駆ってムラトは、弟バヤズィトスレイマン処刑したトプカプ宮殿内廷にある豪華な東屋エレヴァン・キオスクはこの戦勝記念して建てられたものである。しかし、そのエレヴァンは、翌年サファヴィー朝奪還される。1638年ムラトは再びイラク親征してバグダード奪還した。これに先立ってムラトは再び弟カースムを処刑している。バグダード包囲戦11月15日開始され40日間包囲戦の末、12月25日についにバグダード陥落させた。しかし、最後の攻勢時に大宰相戦死してしまった。ムラト4世バグダード遠征中、ムガル帝国皇帝シャー・ジャハーン大使面会している。面会の場では刺繍施され1000の布と鎧が贈与された。オスマン側はそのお返し武器カフタン与えて大使バスラ出発して帰国する時には護衛兵士をつけたという。ムラト当初サファヴィー朝首都イスファハーン攻め落とすつもりであったが、新しく大宰相となったケマンケシュ・ムスタファ・パシャは和平交渉開始しアッバース1世の孫サフィー1世とカスレ・シーリーン条約を結びイラク領有確定させた。この条約は後にトルコイラン国境基礎になる。イスタンブール戻ったムラトヴェネツィア遠征のために艦隊の編成命じるが、1640年27歳病死イブラヒムが後を継いだ

※この「サファヴィー朝との戦い」の解説は、「ムラト4世」の解説の一部です。
「サファヴィー朝との戦い」を含む「ムラト4世」の記事については、「ムラト4世」の概要を参照ください。

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