諸州の太守として・サファヴィー朝との戦いとは? わかりやすく解説

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諸州の太守として・サファヴィー朝との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:02 UTC 版)

アウラングゼーブ」の記事における「諸州の太守として・サファヴィー朝との戦い」の解説

1636年7月24日以降アウラングゼーブデカン総督任命されデカン地方へと向かった。これは同年2月父帝シャー・ジャハーンアフマドナガル王国滅ぼしたのち、後事彼に任せるためであった1644年6月7日アウラングゼーブはこの地位解任され1645年2月26日から1647年1月20日まで、アウラングゼーブグジャラート太守であった1647年2月19日から10月13日まで、アウラングゼーブバルフ及びバダフシャーン太守であった。これはブハラ・ハーン国起きた政争介入しバルフバダフシャーン支配固めサマルカンド奪還するためであった。だが、アウラングゼーブ迫りつつある冬には成す術がなく、部隊士気低下していたため、ブハラ君主ナーディル・ムハンマド・ハーンに任せて引き揚げた。戦後バルフ及びバダフシャーン太守地位解任されたが、引き続きその地にとどまったその後1648年12月からムガル帝国イランサファヴィー朝との間でアフガニスタン要衝カンダハールをめぐり第二次ムガル・サファヴィー戦争勃発し2月カンダハールサファヴィー朝奪回された。そのため、アウラングゼーブ父帝の命により、強力な軍勢を以てカンダハール進軍し包囲開始した。だが、アウラングゼーブの側には強力な大砲がなく包囲戦苦労したため、カンダハールから引き揚げた。 1652年5月初頭アウラングゼーブ今度多数大砲のみならず食糧物資集めるなど準備整えてカンダハールを再包囲した。しかし、カンダハール守備隊にも食料豊富にあり、2ヶ月経って陥落せず、そればかりかウズベク軍勢1万騎が接近しつつあるとの報が届いたため、包囲解いて退いたその後、軍の指揮権ダーラー・シコー移ったこの間1648年3月25日からムルターン太守1649年12月6日からシンド太守兼任し1652年7月24日までこの地位にあった

※この「諸州の太守として・サファヴィー朝との戦い」の解説は、「アウラングゼーブ」の解説の一部です。
「諸州の太守として・サファヴィー朝との戦い」を含む「アウラングゼーブ」の記事については、「アウラングゼーブ」の概要を参照ください。

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