諸島返還交渉の停滞と挑発行為
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「フォークランド紛争」の記事における「諸島返還交渉の停滞と挑発行為」の解説
1975年、キャラハン外相の依頼を受けて、リオ・ティント社の重役でもあるエドワード・シャクルトン貴族院議員を団長として、諸島の経済状況に関する調査団が派遣された。その報告書は1976年6月に提出され、フォークランド諸島の経済状況が絶望的であることが確認された。アルゼンチンへの過度の経済的依存はなく、自給自足に近かったものの、逆にいえば、植民地時代からほとんど発展していないということでもあった。5年間で1,400万ポンドという莫大な投資が必要であると見積もられたが、これはイギリス単独では実現困難であった。イギリス政府はこの報告書を公開し、アルゼンチンからの経済的な協力を促そうとしたが、アルゼンチン政府はこれを諸島の経済的自立を進めるものであると誤解して、危機感を強めた。また島民は、この報告書によってイギリス本土からのさらなる投資が呼び込まれるものと期待した。 シャクルトン議員が調査を進めていた1976年2月4日にイギリスの南極調査船「シャクルトン」 (RRS Shackleton) が南緯60度線近くのアルゼンチンの排他的経済水域で、同国海軍による警告射撃を受けて、数発を被弾するという事件が発生した。2月19日、国防省は諸島の防衛について検討したものの、当時、同諸島には軽武装の氷海警備船「エンデュアランス」 (HMS Endurance) と海兵隊員36名しか配備されておらず、侵攻阻止はほぼ絶望的であると見積もられ、奪回作戦に重点が置かれた。 同年のクーデター(英語版)で権力を掌握したホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領は、国民弾圧へのガス抜きのためにフォークランド問題解決への糸口を探っており、交渉を進めるための挑発行動として、12月には、50名のアルゼンチン軍部隊がイギリス領サウスサンドウィッチ諸島南端の無人島、南チューレに無断で上陸し、アルゼンチン国旗を掲げる事件が発生した。イギリスの合同情報委員会(JIC)は、これをアルゼンチン軍事評議会において強硬派が優勢になりつつある兆候と分析した。 1977年11月にJICが作成した情報見積もりによれば、アルゼンチンが軍事行動を含めたより強引な手段に訴えてくる危険性があると指摘された。そのため、キャラハン首相は、11月21日に原子力潜水艦「ドレッドノート」とフリゲート「アラクリティ」「フィービ」および支援艦艇を派遣する (Operation Journeyman) ことを決定した。キャラハンは機動部隊派遣について秘密情報部長官に話し、これがアメリカ合衆国を経由して非公式にアルゼンチンに通告されることを期待した。アルゼンチンがこの艦隊派遣を知りえていたかどうか、またそのことがアルゼンチンの行動に影響を及ぼしたかどうかについては、不明である。一方、イギリス側は交戦規定の策定など軍事行動のシミュレートを進めるとともに、「エンデュアランス」も一時的に本国に戻されて、レーダー探知機や通信傍受装置などの装備が施された。
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