サファヴィー朝の宣教活動
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「バヤズィト2世」の記事における「サファヴィー朝の宣教活動」の解説
16世紀初頭に東方のイランで勃興したサファヴィー朝は勢力を拡大しており、当初オスマン帝国とサファヴィー朝は友好的な関係にあったが、やがてサファヴィー朝はアナトリア方面への進出の準備を開始する。 サファヴィー朝のシャー・イスマーイール1世はアナトリア進攻の布石として、配下にアナトリア全域でのシーア派の布教を指示した。優れた詩人でもあったイスマーイール1世は自ら筆を執ってトルコ語で勧誘の詩を綴り、宣教師(ハリーフェ)を通じて勧誘の詩がアナトリアに伝えられた。バヤズィトは当初サファヴィー朝の宣教活動を静観しており、高官たちもサファヴィー朝の動向に関心を持たず、皇子たちの目は帝位に向いていたが、1511年にシャー・クル(「サファヴィー朝のシャーの奴隷」を意味する)を名乗る者が反乱を起こすと事態は急変する。バヤズィト治下のオスマン帝国で確立されつつあるスンナ派に違和感を抱く、あるいは彼が推進する厳格なイスラームの教えに不満を持つ民衆が反乱に参加し、その軍勢は10000にも達したのである。
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