サファヴィー朝・オスマン帝国時代
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「グルジアのイスラム教」の記事における「サファヴィー朝・オスマン帝国時代」の解説
サファヴィー朝はコーカサスの支配を巡り、オスマン帝国と絶え間無く紛争状態にあった。16世紀から18世紀にかけては、当時グルジアが単一国家でなかったため、複数の独立王国や公国に対処しなければならなかった。これらの政体はしばしば政治的に異なる経緯をたどった。 サファヴィー朝の関心は主にグルジア東部(カルトリ、カヘティの両王国)や南部(サムツヘ=サータバゴ王国)に向けられることとなる(西部はオスマン帝国の支配下にあった)。なお、これらの独立した王国は1518年以後、ペルシアに服属。 1555年5月29日、サファヴィー朝とオスマン帝国はアマシャ条約を締結し、南コーカサスが両国の間で分割された。上述の通り、西部から南西部にかけてはオスマン帝国が支配し、東部から南東部にかけてはペルシアが掌握したため、カルトリ王国は再度サファヴィー朝領となった。 オスマン帝国の支配下に置かれた地域のうち、イスラム教に改宗したグルジア人としては、アジャール人やメスヘティア・トルコ人(メスフ人)が挙げられる。 1703年にはヴァフタング6世がカルトリ王国の君主に就任。1716年イスラム教を取り入れたことから、サファヴィー朝の君主がヴァフタング6世をカルトリ国王として承認するに至る。しかしながら、決定的な局面で軍事行動を中断するよう命じられたため、ヴァフタング6世は親露派路線をとるものの、ロシアからは約束された軍事支援を得られなかった。
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