サファヴィー朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 21:20 UTC 版)
「東クルディスタン」の記事における「サファヴィー朝時代」の解説
サファヴィー朝は東クルディスタンに侵攻し、マハーバードやアルダラン等を中心に複数の首長国に分裂していたクルド人を破った。 1534年~1535年、タフマースブ1世は計画的に古いクルド人居住地域を破壊した。多くのクルド人がアルボルズ山脈や大ホラーサーン(英語版)[要リンク修正]、イラン高原に移住を強いられた。 1609年11月~1610年夏、イラン北西部のオルーミーイェ湖周辺のベラドスト地域のディムディム要塞で、エミール・ハーン・レプゼリン(黄金の手のハーン)率いるクルド人がサファヴィー朝と戦った。ハーンはオスマン帝国とサファヴィー朝の両国から独立を保つ道を模索しており、ディムディム要塞にサファヴィー朝の北西を脅かす事を期待した。クルド人は敗れ、アッバース1世によって悉く虐殺された。無人となった土地にはトルコ系のアフシャル人(英語版)を移住させた。約170万人のクルド人がイラン北東のホラーサーンに移住させられた。 18世紀、クルド人はサファヴィー朝のアフガニスタン侵略に貢献し、ハマダーンを征服し、エスファハーン周辺に勢力を伸ばした。 1747年、ナーディル・シャーはクルド人の反乱を鎮圧しようとしたが、完了する前に暗殺された。死後、クルド人は力の空白に乗じてファールス州の一部を征服した。
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