艦隊の編成とは? わかりやすく解説

艦隊の編成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:06 UTC 版)

ペドロ・アルヴァレス・カブラル」の記事における「艦隊の編成」の解説

1500年2月15日カブラルインド遠征航海英語版)のCapitão-mor (Major-Captainないしcommander-in-chief 相当)に任じられた。当時ポルトガル王国において、海陸とも部隊指揮官には貴族任じるのが一般的であり、その際専門的な技量経験はあまり考慮されなかった。この時の艦隊においても、カブラル指揮下に入る士官たちはカブラル同様の貴族子弟ばかりであった。王はアフォンソ・デ・アルブケルケやジョアン・デ・カストロ(英語版)といった有能な指揮官たちをさしおいて能力適性のない者ばかりを安易に指名したため、その練度不足ぶりは誰の目にも明らかであったポルトガル王室がどういった基準カブラルインド遠征隊長任じたかについて、詳細伝わっていない。辞令書には「功績あり忠勤なるにより」とあるのみで、具体的にどの様能力見込んでのことかは不明である。歴史学者William Greenleeは、マヌエル1世は「カブラルについては宮廷での様子しか把握できていないはずだ」と論じている。その上でカブラル本人含め彼の一族王室忠実であったこと、またカブラル宮廷評議会において頭角現していたことが重要な要素となった」としている。カブラルが王に気に入られていたであろうことはその後彼の兄弟のうちふたりが評議会入りしている事実からも推察でき、宮中権謀術数巡らせたことが、大任を得る一助となっていたと考えられる歴史学者Malyn Newittはこの人事には隠され意図があるとし、カブラル任じられたのは「宮中対立する貴族派閥の勢力バランスをとるためで、カブラルには他の任務与えるべき目立った才がなく、かつ大規模探検遠征率いられる者が他になかったからだ」としている。 カブラル隊長任じられたが、探検遠征に出るにあたり彼の能力不足を補うべく、バルトロメウ・ディアス、ディオゴ・ディアス(英語版)、ニコラス・クエリョ(英語版)ら熟達航海士たちが副官としてつけられた。艦隊は全13隻の船と1,500人の乗組員構成された。そのうち兵士700であったが、大半平民であり、軍事教練実戦経験皆無であった艦隊は2隊に別れていた。第1隊は9隻のナウ船(キャラック船)と2隻の四角キャラベル船英語版からなり通商路と商館確保目指しインドカリカット現在のコーリコード)に向かうものであった。第2隊はナウ船と四角キャラベル船各1隻ずつで、モザンビークソファラ目的地とした。艦隊指揮官への着任引き換えカブラル10,000クルザード旧時ポルトガル通貨おおよそ金で35kg程の価値になる)を支給され私費コショウ30トン購入しヨーロッパへ持ち帰る権利与えられた。コショウについては売却益免税とする条件付きであった。またコショウ以外の香辛料10箱まで免税輸入する許可与えられた。すなわち、この探検航海多大な危険を伴うものであったが、積荷携え本国へと帰還できれば巨万の富が得られる公算であった当時ヨーロッパにおいて香辛料は、かくも貴重であり希求されていたのである最初にインド到達した艦隊は、アフリカ南端周航する航路取っていた。これはヴァスコ・ダ・ガマ率い艦隊で、本国帰投したのは1499年のことであったポルトガルそれまで数十年にわたり、イタリアの諸海洋都市国家英語版)やオスマン帝国の支配下にある地中海経由せず東洋世界へと至る路を探し求めていた。ポルトガル領土拡張インド航路発見目指すことに始まり、やがて世界中への入植志向するようになった異教支配する土地へのカトリック教化を推し進めていく、というもう一つ目的も、探検遠征後押しする原動力となった。これはポルトガル国内でのムーア人との抗争から連綿と続く、ムスリム勢力押し返すべし、というある種伝統的な意識からくるものであった北アフリカ始まった抗争が、インド入植へと繋がっていくのであるプレスター・ジョン伝説また、探検者たちを突き動かした要素のひとつであった。彼らはこの偉大なクリスチャンの王と、対イスラム同盟を結ばんと考えたのであるとはいえ究極的にポルトガル求めていたのは、西アフリカとの金・奴隷貿易インドとの香辛料貿易によって得られるであろう莫大な利益であった

※この「艦隊の編成」の解説は、「ペドロ・アルヴァレス・カブラル」の解説の一部です。
「艦隊の編成」を含む「ペドロ・アルヴァレス・カブラル」の記事については、「ペドロ・アルヴァレス・カブラル」の概要を参照ください。


艦隊の編成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:52 UTC 版)

栄光の6月1日」の記事における「艦隊の編成」の解説

1794年の春、フランス護送船団ヨーロッパ海域到着前にして、ハウ海峡艦隊3つ分割したインド西インド諸島およびニューファンドランド島へ向かう船団フィニステレ岬までの護衛任務ジョージ・モンタギュー英語版)が率いヘクター旗艦とする6隻の戦列艦と2隻のフリゲート艦隊与えられた。 残り船団護衛ピーター・レーニア率いサフォーク英語版)を旗艦とする6隻からなる艦隊委ねられた。 ハウ自身26隻の戦列艦と数隻の支援艦からなる艦隊を直率することとし到着するフランス船団ビスケー湾待ち受けるべく湾内巡回した

※この「艦隊の編成」の解説は、「栄光の6月1日」の解説の一部です。
「艦隊の編成」を含む「栄光の6月1日」の記事については、「栄光の6月1日」の概要を参照ください。


艦隊の編成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 02:52 UTC 版)

栄光の6月1日」の記事における「艦隊の編成」の解説

フランス大西洋艦隊は、1794年春にイギリス大西洋艦隊よりも分散して配置されていた。ピエール・ヴァンスタブル(英語版少将は、2隻の戦列艦を含む5隻を率いて自国民に何よりも必要なアメリカからの穀物輸送船団迎えるためにアメリカ東部沿岸まで出向いていた。ジョゼフ=マリー・ニエリ(英語版少将は、5隻の戦列艦随伴の艦を率いてロシュフォール出発し輸送船団との合流のために大西洋中部まで航海した。ヴィラレーはハウ提督イギリス艦隊対処するために、25隻の戦列艦とともにブレスト残った

※この「艦隊の編成」の解説は、「栄光の6月1日」の解説の一部です。
「艦隊の編成」を含む「栄光の6月1日」の記事については、「栄光の6月1日」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「艦隊の編成」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「艦隊の編成」の関連用語

艦隊の編成のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



艦隊の編成のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのペドロ・アルヴァレス・カブラル (改訂履歴)、栄光の6月1日 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS