艦隊の編成
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「ペドロ・アルヴァレス・カブラル」の記事における「艦隊の編成」の解説
1500年2月15日、カブラルはインド遠征航海(英語版)のCapitão-mor (Major-Captainないしcommander-in-chief 相当)に任じられた。当時のポルトガル王国において、海陸とも部隊指揮官には貴族を任じるのが一般的であり、その際に専門的な技量や経験はあまり考慮されなかった。この時の艦隊においても、カブラル指揮下に入る士官たちはカブラル同様の貴族子弟ばかりであった。王はアフォンソ・デ・アルブケルケやジョアン・デ・カストロ(英語版)といった有能な指揮官たちをさしおいて能力適性のない者ばかりを安易に指名したため、その練度不足ぶりは誰の目にも明らかであった。 ポルトガル王室がどういった基準でカブラルをインド遠征隊長に任じたかについて、詳細は伝わっていない。辞令書には「功績あり忠勤なるにより」とあるのみで、具体的にどの様な能力を見込んでのことかは不明である。歴史学者William Greenleeは、マヌエル1世は「カブラルについては宮廷での様子しか把握できていないはずだ」と論じている。その上で「カブラル本人を含め彼の一族が王室に忠実であったこと、またカブラルが宮廷の評議会において頭角を現していたことが重要な要素となった」としている。カブラルが王に気に入られていたであろうことはその後彼の兄弟のうちふたりが評議会入りしている事実からも推察でき、宮中で権謀術数を巡らせたことが、大任を得る一助となっていたと考えられる。歴史学者Malyn Newittはこの人事には隠された意図があるとし、カブラルが任じられたのは「宮中で対立する貴族派閥の勢力バランスをとるためで、カブラルには他の任務を与えるべき目立った才がなく、かつ大規模探検遠征を率いられる者が他になかったからだ」としている。 カブラルは隊長に任じられたが、探検遠征に出るにあたり彼の能力不足を補うべく、バルトロメウ・ディアス、ディオゴ・ディアス(英語版)、ニコラス・クエリョ(英語版)ら熟達の航海士たちが副官としてつけられた。艦隊は全13隻の船と1,500人の乗組員で構成された。そのうち兵士は700名であったが、大半は平民であり、軍事教練や実戦の経験は皆無であった。 艦隊は2隊に別れていた。第1隊は9隻のナウ船(キャラック船)と2隻の四角帆キャラベル船(英語版)からなり、通商路と商館の確保を目指しインドのカリカット(現在のコーリコード)に向かうものであった。第2隊はナウ船と四角帆キャラベル船各1隻ずつで、モザンビークのソファラを目的地とした。艦隊指揮官への着任と引き換えにカブラルは10,000クルザード(旧時ポルトガルの通貨。おおよそ金で35kg程の価値になる)を支給され、私費でコショウ30トンを購入しヨーロッパへ持ち帰る権利を与えられた。コショウについては売却益を免税とする条件付きであった。またコショウ以外の香辛料を10箱まで免税で輸入する許可も与えられた。すなわち、この探検航海は多大な危険を伴うものであったが、積荷を携え本国へと帰還できれば巨万の富が得られる公算であった。当時のヨーロッパにおいて香辛料は、かくも貴重であり希求されていたのである。 最初にインドへ到達した艦隊は、アフリカ南端を周航する航路を取っていた。これはヴァスコ・ダ・ガマ率いる艦隊で、本国へ帰投したのは1499年のことであった。ポルトガルはそれまでの数十年にわたり、イタリアの諸海洋都市国家(英語版)やオスマン帝国の支配下にある地中海を経由せず東洋世界へと至る路を探し求めていた。ポルトガルの領土拡張はインド航路の発見を目指すことに始まり、やがて世界中への入植を志向するようになった。異教の支配する土地へのカトリック教化を推し進めていく、というもう一つの目的も、探検遠征を後押しする原動力となった。これはポルトガル国内でのムーア人との抗争から連綿と続く、ムスリム勢力を押し返すべし、というある種伝統的な意識からくるものであった。北アフリカに始まった抗争が、インド入植へと繋がっていくのである。プレスター・ジョンの伝説もまた、探検者たちを突き動かした要素のひとつであった。彼らはこの偉大なるクリスチャンの王と、対イスラム同盟を結ばんと考えたのである。とはいえ究極的にポルトガルが求めていたのは、西アフリカとの金・奴隷貿易やインドとの香辛料貿易によって得られるであろう莫大な利益であった。
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艦隊の編成
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1794年の春、フランス護送船団のヨーロッパ海域到着を前にして、ハウは海峡艦隊を3つに分割した。 インド、西インド諸島およびニューファンドランド島へ向かう船団のフィニステレ岬までの護衛任務がジョージ・モンタギュー(英語版)が率いるヘクターを旗艦とする6隻の戦列艦と2隻のフリゲートの艦隊に与えられた。 残りの船団の護衛はピーター・レーニアが率いるサフォーク(英語版)を旗艦とする6隻からなる艦隊に委ねられた。 ハウ自身は26隻の戦列艦と数隻の支援艦からなる艦隊を直率することとし、到着するフランス船団をビスケー湾で待ち受けるべく湾内を巡回した。
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艦隊の編成
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フランス大西洋艦隊は、1794年の春にはイギリスの大西洋艦隊よりも分散して配置されていた。ピエール・ヴァンスタブル(英語版)少将は、2隻の戦列艦を含む5隻を率いて、自国民に何よりも必要なアメリカからの穀物輸送船団を迎えるためにアメリカ東部沿岸まで出向いていた。ジョゼフ=マリー・ニエリ(英語版)少将は、5隻の戦列艦と随伴の艦を率いてロシュフォールを出発し、輸送船団との合流のために大西洋中部まで航海した。ヴィラレーはハウ提督のイギリス艦隊に対処するために、25隻の戦列艦とともにブレストに残った。
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