インド遠征
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「ティムールの征服戦争」の記事における「インド遠征」の解説
サマルカンドに帰還したティムールは広大な領土を息子・孫達の間で分割したが、その内、アフガニスタン方面を統治したピール・ムハンマド(ムハンマド・スルタンの弟)はカンダハールからシンド地方に軍を進めていたのだが、パンジャーブの要衝ムルタン攻略に手こずっていたのである。ティムールは、これを受けて1398年4月にサマルカンドを起ち、インド遠征を敢行した。インドへの征服事業はチャガタイ・ウルスの政策の一つだったから、ティムールもこの事業を継承する必要があったからである[要ページ番号]。当時、インドを支配していたのはトゥグルク朝であったが、ティムールは「異教徒を甘やかすデリー政権に鉄鎚を下す」のが大義名分であった[要ページ番号]。 8月なかばにカーブルに到着したティムールは、スレイマン山のパシュトゥーン人と交戦しつつ、インダス川を渡ってタル砂漠を横断した後にジェラム川に沿ってタラムバに至った。この地で略奪をして糧食を確保した後、10月末にラヴィ川とサトレジ川の間でピール・ムハンマドと合流した。ピール・ムハンマドは独力でムルタンを落としたものの、その後の豪雨で全ての軍馬を失っていたのである。ティムール軍は一気にデリーを目指し、バトニール、ルーニーの各要塞を落としていったが、この地で悪名高い「インド捕虜10万人の殺戮」を行う。12月17日にデリー郊外の平野でティムールはトゥグルク朝軍と激突したが、トゥグルク軍は繰り出す戦象にティムールの騎馬は怖気づいた。これに対してティムールは野牛の一群で戦象を封じ込めて勝利する。 12月18日にティムール軍はデリーに入城して破壊と略奪の限りを尽くした。1399年1月1日にティムールは莫大な財宝、職人、捕虜、戦象を伴いデリーを後にした。帰還の途中に西方方面の危機的状況を受け取り、ティムール自身は一足早く4月29日にサマルカンドに着いた。
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インド遠征
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1398年から1399年にかけて、ティムールはインドに軍事遠征を行った。 1397年末よりアフガニスタンを統治していた孫のピール・ムハンマドにインドへの攻撃を命じていたが、ピール・ムハンマドがムルターンの攻略に苦戦していたためにティムールは親征を決定した。遠征においては92,000人の兵士を動員し、それを3部隊に分けて進軍した。 ソユルガトミシュの跡を継いだチャガタイ・ハンであるスルタン・マフムードを左翼軍の司令官として南下させ、ティムール自身は後方の安全を確保するためにヒンドゥークシュ山脈(現在のヌーリスターン州に相当する地域)を根城とする賊徒の討伐を指揮した。氷雪が積もる高山の進軍は困難なものとなり、盗賊団が立て籠もる山城の攻略では配下の将兵の士気が萎縮していた。ティムールは山賊の討伐を諦めず、山城の包囲が無益であると説得した軍師ムハンマド・コアギンの地位を剥奪したことがアラブシャーによって記録されている。奮い立った兵士たちによって山賊は殲滅された後、ティムールは遭遇する敵対勢力を撃破しながらカーブルに移動した。インド行軍中にアフガニスタン各地の反乱勢力が討伐されたことは治安の回復と交通路の確保につながり、ティムール朝のアフガニスタン方面の支配が強化された。 一方、ピール・ムハンマドはムルターンを制圧した後に洪水で軍馬を失っており、インドの領主たちから包囲を受けていた。ティムールはピール・ムハンマドと合流し、10月に彼の部隊を本隊に組み入れてあらためてデリーに進軍した。 12月13日、デリーから出撃した軍隊との会戦の前に捕虜の反抗を危惧したティムールは100,000人に及ぶヒンドゥー教徒の捕虜を処刑した。12月17日(あるいは18日)にティムール軍はトゥグルク朝のスルターン・マフムードが指揮する軍隊と交戦する。戦闘に際してティムールは敵側の戦象に対して入念な方策を巡らせていた。騎兵の活躍によって戦象は壊滅し、トゥグルク軍は敗走した。 デリーに入城したティムールは12月20日に占有を宣言し、戦勝を祝う祝宴を開いた。デリー入城後、ティムール軍の兵士は城内で破壊と略奪を行い、さらに抵抗する住民を殺害した。ティムールはデリー滞在中に120,000頭に及ぶ戦象と儀礼用の象の行進を見て楽しみ、それらの象をサマルカンド、ヘラート、タブリーズなどの帝国領の都市に持ち帰った。 翌1399年1月にティムールはデリーを出発して帰国、かつてチャガタイ・ハン国のタルマシリンが陥落させることができなかったメーラトを攻略した。ティムールは非イスラム教徒を弾圧しながら北上し、1399年3月末にマー・ワラー・アンナフルに帰還した。 このインド遠征においては、異教徒との戦いが大義名分とされ、ティムール朝の歴史家サラーフッディーン・アリー・ヤズディー(英語版)はインド遠征には宗教的な道義があったと述べた。しかし、バルトリドなどの後世の研究者の多くはインド遠征に宗教的な理由があったことに否定的な見解を示している。このインド遠征の背景にはインドの都市が有する財貨があると考えられており、ティムールは遠征によって約100,000人の兵士の給料に匹敵するほどの財宝を獲得したと言われている。研究者の中には、インド遠征に政治的必要性は無いとの指摘もある。
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インド遠征
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しばし平和が続いたことからセミラミスは戦争による領土拡大の野心を持つようになり、世界最大の国と噂のインドへの遠征を計画した。当時のインド王・スタブロベテス(Stabrobates)は彼の意のままに扱える無数の兵士と多くの象、そしてそれらを飾る素晴らしい武具を備えていた。セミラミスはインドの強大な国力を知ると、3年をかけて領土の国家に装備の充実と造船を命じた。また象に対抗し敵兵の恐怖を煽るために、極秘裏に牛の皮を縫い合わせ藁をつめた巨大な人形を作らせた。それは中に人と駱駝が入り、駱駝の力で動いたので遠目からは巨大な獣のように見せることが出来た。そうして準備が整うとバクトリアに300万の兵士と20万の騎兵、10万の戦車を集め出陣した。スタブロベテス王の方でもアッシリア方の戦争準備を聞きつけると船や象、武器の量を増やして対抗し、準備が整うと進軍中のセミラミスに使者を送り、手紙の中で彼女を攻撃者と批難し、また娼婦と罵倒して、勝利の暁には神の立会いのもと磔にすると脅した。セミラミスは手紙を読むと笑いながら「インド人は私の勇気を試すことになる」と言って取り合わなかった。遠征軍がインダス川に到着すると激しい戦闘が始まり、最終的にアッシリアが勝利を収めて、約千の小船を破壊し、多くの都市を落として10万の捕虜を獲得した。スタブロベテス王は怯えて撤退するように見せかけると、セミラミスは橋に6万を残して偽の巨象を露払いに進軍した。しかし、当初は巨象の存在に悩んだインド側も、アッシリア軍からの脱走兵の情報で巨象の偽装を知ると隊列を整え迎撃の構えを取った。スタブロベテス王は主軍の前方に騎兵と戦車を展開したが、偽の巨象が盾になり、またインドの軍馬が巨象の中にいる駱駝の匂いに怯えたため戦線が乱れ、アッシリア軍が優位に立った。そこでインド王は象を前方にして精鋭歩兵を進ませて自ら前線に立って戦ったため、象兵の猛攻によりアッシリア軍はさんざんに打ち破られた。スタブロベテス王は敵軍が総崩れになるのを見ると、セミラミスの腕に矢を命中させ槍を背中に当てたが、かすり傷だったことと象兵の足の遅さから取り逃がしてしまった。一方、アッシリア軍は船橋に殺到したため大きな混乱が起こり川に落ちる者が多く出たが、セミラミスは兵の大半が渡り終えるのを見ると船橋の留め具を破壊して追撃をかわした。その時、スタブロベテス王が「渡河を禁ずる」という天啓を得て軍を留めたため、セミラミスは捕虜を交換してバクトラに帰還した。この戦いにより彼女は兵士の3分の2を失ってしまった。 しばらくして、息子のニニュアスが宦官を使って陰謀を企てる事件が起こった。セミラミスはアモン神殿での神託を思い出したが、息子を処罰せず、逆に国家に対して彼に従うように命ずると直ぐに姿を消した。『歴史叢書』では、「彼女は鳩に姿を変えて飛び立ったと信じられ、こうしたことがアッシリアで鳩を神と崇めセミラミスを信仰する由来となった」と主張する者がいると紹介する。セミラミスは42年の間、女王として君臨し62歳で亡くなった。
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