インド遠征とは? わかりやすく解説

インド遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 01:49 UTC 版)

ティムールの征服戦争」の記事における「インド遠征」の解説

サマルカンド帰還したティムール広大な領土息子・孫達の間で分割したが、その内アフガニスタン方面統治したピール・ムハンマド(ムハンマド・スルタンの弟)はカンダハールからシンド地方に軍を進めていたのだが、パンジャーブ要衝ムルタン攻略に手こずっていたのであるティムールは、これを受けて1398年4月サマルカンドを起ち、インド遠征を敢行した。インドへの征服事業チャガタイ・ウルス政策一つだったから、ティムールもこの事業継承する必要があったからである[要ページ番号]。当時インド支配していたのはトゥグルク朝であったが、ティムールは「異教徒甘やかデリー政権鉄鎚を下す」のが大義名分であった[要ページ番号]。 8月なかばにカーブル到着したティムールは、スレイマン山のパシュトゥーン人交戦しつつ、インダス川渡ってタル砂漠横断した後にジェラム川に沿ってタラムバに至った。この地で略奪をして糧食確保した後、10月末にラヴィ川とサトレジ川の間でピール・ムハンマド合流したピール・ムハンマド独力でムルタン落としたものの、その後豪雨全ての軍馬失っていたのであるティムール軍は一気デリー目指し、バトニール、ルーニーの各要塞落としていったが、この地で悪名高いインド捕虜10万人の殺戮」を行う。12月17日デリー郊外平野ティムールトゥグルク朝軍と激突したが、トゥグルク軍は繰り出す戦象ティムール騎馬怖気づいた。これに対してティムール野牛一群戦象封じ込め勝利する12月18日ティムール軍はデリー入城し破壊略奪限りを尽くした1399年1月1日ティムール莫大な財宝職人捕虜戦象伴いデリーを後にした。帰還途中西方方面危機的状況受け取りティムール自身一足早く4月29日サマルカンド着いた

※この「インド遠征」の解説は、「ティムールの征服戦争」の解説の一部です。
「インド遠征」を含む「ティムールの征服戦争」の記事については、「ティムールの征服戦争」の概要を参照ください。


インド遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:40 UTC 版)

ティムール」の記事における「インド遠征」の解説

1398年から1399年にかけて、ティムールインド軍事遠征行った1397年末よりアフガニスタン統治していた孫のピール・ムハンマドインドへの攻撃命じていたが、ピール・ムハンマドムルターン攻略苦戦していたためにティムール親征決定した遠征においては92,000人の兵士動員し、それを3部隊に分けて進軍したソユルガトミシュの跡を継いだチャガタイ・ハンであるスルタン・マフムード左翼軍の司令官として南下させ、ティムール自身後方の安全を確保するためにヒンドゥークシュ山脈現在のヌーリスターン州相当する地域)を根城とする賊徒討伐指揮した氷雪が積もる高山進軍困難なものとなり、盗賊団立て籠もる山城の攻略では配下将兵士気萎縮していた。ティムール山賊討伐諦めず山城の包囲無益であると説得した軍師ムハンマド・コアギンの地位剥奪したことがアラブシャーによって記録されている。奮い立った兵士たちによって山賊殲滅された後、ティムール遭遇する敵対勢力撃破しながらカーブル移動したインド行軍中にアフガニスタン各地反乱勢力討伐されたことは治安回復交通路確保つながりティムール朝アフガニスタン方面支配強化された。 一方ピール・ムハンマドムルターン制圧した後に洪水軍馬失っており、インド領主たちから包囲受けていた。ティムールピール・ムハンマド合流し10月彼の部隊本隊組み入れあらためデリー進軍した12月13日デリーから出撃した軍隊との会戦前に捕虜反抗危惧したティムール100,000人に及ぶヒンドゥー教徒捕虜処刑した12月17日(あるいは18日)にティムール軍はトゥグルク朝のスルターン・マフムードが指揮する軍隊交戦する戦闘に際してティムール敵側戦象に対して入念な方策巡らせていた。騎兵活躍によって戦象壊滅しトゥグルク軍は敗走したデリー入城したティムール12月20日占有宣言し戦勝を祝う祝宴開いたデリー入城後、ティムール軍の兵士城内破壊略奪行い、さらに抵抗する住民殺害したティムールデリー滞在中に120,000頭に及ぶ戦象儀礼用の象の行進見て楽しみ、それらの象をサマルカンドヘラートタブリーズなどの帝国領都市持ち帰った。 翌1399年1月ティムールデリー出発して帰国、かつてチャガタイ・ハン国タルマシリン陥落させることができなかったメーラト攻略したティムールは非イスラム教徒弾圧しながら北上し1399年3月末にマー・ワラー・アンナフル帰還した。 このインド遠征においては異教徒との戦い大義名分とされ、ティムール朝歴史家サラーフッディーン・アリー・ヤズディー(英語版)はインド遠征には宗教的な道義があったと述べた。しかし、バルトリドなどの後世の研究者の多くはインド遠征に宗教的な理由があったことに否定的な見解示している。このインド遠征の背景にはインドの都市有する財貨があると考えられており、ティムール遠征によって約100,000人の兵士給料匹敵するほどの財宝獲得したと言われている。研究者中には、インド遠征に政治的必要性は無いとの指摘もある。

※この「インド遠征」の解説は、「ティムール」の解説の一部です。
「インド遠征」を含む「ティムール」の記事については、「ティムール」の概要を参照ください。


インド遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 20:59 UTC 版)

セミラミス」の記事における「インド遠征」の解説

しばし平和が続いたことからセミラミス戦争による領土拡大野心を持つようになり、世界最大の国と噂のインドへの遠征計画した当時インド王・スタブロベテス(Stabrobates)は彼の意のまま扱える無数の兵士多くの象、そしてそれらを飾る素晴らし武具備えていた。セミラミスインド強大な国力を知ると、3年をかけて領土国家装備充実造船命じた。また象に対抗し敵兵恐怖煽るために、極秘裏に牛の皮を縫い合わせをつめた巨大な人形を作らせた。それは中に人と駱駝入り駱駝の力で動いたので遠目からは巨大な獣のように見せることが出来た。そうして準備が整うとバクトリア300兵士20騎兵10万戦車集め出陣した。スタブロベテス王の方でもアッシリア方の戦争準備聞きつけると船や象、武器の量を増やして対抗し準備が整うと進軍中のセミラミス使者送り手紙の中で彼女を攻撃者批難し、また娼婦罵倒して勝利暁には神の立会いのもと磔にすると脅したセミラミス手紙を読むと笑いながら「インド人は私の勇気を試すことになる」と言って取り合わなかった。遠征軍インダス川到着する激し戦闘始まり最終的にアッシリア勝利を収めて、約千の小船破壊し多く都市落として10万捕虜獲得した。スタブロベテス王は怯えて撤退するように見せかけると、セミラミスに6残して偽の巨象露払い進軍した。しかし、当初巨象存在悩んだインド側も、アッシリア軍からの脱走兵情報巨象偽装を知ると隊列整え迎撃構え取った。スタブロベテス王は主軍の前方騎兵戦車展開したが、偽の巨象が盾になり、またインド軍馬巨象中にいる駱駝匂い怯えたため戦線乱れアッシリア軍が優位に立った。そこでインド王は象を前方にして精鋭歩兵を進ませて自ら前線立って戦ったため、象兵猛攻によりアッシリア軍はさんざんに打ち破られた。スタブロベテス王は敵軍総崩れになるのを見ると、セミラミスの腕に矢を命中させ背中当てたが、かすり傷だったことと象兵の足の遅さから取り逃がしてしまった。一方アッシリア軍は船橋殺到したため大きな混乱起こり川に落ちる者が多く出たが、セミラミスは兵の大半渡り終えるのを見ると船橋留め具破壊して追撃かわしたその時、スタブロベテス王が「渡河禁ずる」という天啓得て軍を留めたため、セミラミス捕虜交換してバクトラ帰還した。この戦いにより彼女は兵士3分の2失ってしまった。 しばらくして息子のニニュアスが宦官使って陰謀企てる事件起こったセミラミスアモン神殿での神託思い出したが、息子処罰せず、逆に国家に対して彼に従うように命ずると直ぐに姿を消した。『歴史叢書』では、「彼女はに姿を変えて飛び立った信じられこうしたことがアッシリアを神と崇めセミラミス信仰する由来となった」と主張する者がいると紹介するセミラミス42年の間、女王として君臨し62歳で亡くなった

※この「インド遠征」の解説は、「セミラミス」の解説の一部です。
「インド遠征」を含む「セミラミス」の記事については、「セミラミス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「インド遠征」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「インド遠征」の関連用語

インド遠征のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



インド遠征のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのティムールの征服戦争 (改訂履歴)、ティムール (改訂履歴)、セミラミス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS