アラー・ウッディーンの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/25 14:07 UTC 版)
「ハルジー朝」の記事における「アラー・ウッディーンの治世」の解説
しかし、ジャラールッディーン・ハルジーは1296年に甥のアラー・ウッディーン・ハルジーによって暗殺された。 かわって、第3代スルターンに自ら即位したアラー・ウッディーンは卓越した軍事的才能の持ち主で、モンゴル帝国によるインド侵入を数度に渡って撃退した。ギヤースッディーン・バルバンに率いられた奴隷王朝に撃退されて以降、モンゴル帝国が抱いていたインド侵略を再び挫折させることに成功し、これらの武勲で一気に名声を高めたアラー・ウッディーンは自らを「第二のアレクサンドロス大王(シカンダル・サーニーまたはスィカンダル・サーニー)」と称した。 アラー・ウッディーンはモンゴル帝国の脅威がなくなるとマリク・カーフールに命じ、積極的なデカン、南インド遠征を敢行し、ヤーダヴァ朝、カーカティーヤ朝、ホイサラ朝といったヒンドゥー王朝を服属させ、パーンディヤ朝の首都マドゥライを落とし、1310年までにデカン、インド南部の大半を占領してデリー・スルタン朝に広大な版図をもたらした。 また、この頃、現アフガニスタンの山岳地帯に駐留してたびたびインドに侵入してきたモンゴル帝国のチャガタイ・ハン国軍を、ハルジー朝に仕える地方総督のギヤースッディーン・トゥグルクらの活躍で撃退し、インドの自立を保っている(モンゴルのインド侵攻)。 アラー・ウッディーンは、内政面においては、貴族統制のために密告を奨励したり、ヒンドゥー教徒の地方領主を抑圧して統制力を高め、厳格な物価統制や検地による経済と税収の安定化を行なうなど、強圧的に施策を行った。さらに、デカン、南インド遠征の成功により得た多大な戦利品などもあって、ハルジー朝は文化的、経済的にも大きく発展することとなり、全盛期を迎えた。だが、アラー・ウッディーンの晩年には奢侈に溺れ、早くも衰退の兆しが見え始めた。
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