艦隊の集結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/26 12:59 UTC 版)
「1779年の無敵艦隊」の記事における「艦隊の集結」の解説
ウェサン島の海戦を指揮していたドルビリエール伯爵がフランス艦隊の指揮官であり、その作戦は30艦の戦列艦と多くの小型艦艇を率いて、スペイン北西部ア・コルーニャ近くのシサルガ諸島でスペイン艦隊と落ち合うことだった。フランス艦隊がそこに到着した時、スペイン艦隊はまだ来ていなかった。スペインは後に風向きが悪かったと主張していた。ドルビリエールはスペイン艦隊を待たなければならなかった。ブレストを出港した艦船は、イギリスによる封鎖の可能性を避けるために、意図的に十分に物資を積まずに出てきていた。数週間続いた待期期間に重大な問題が発生した。またスペインで物資を補給する手配も行われなかった。壊血病で乗組員が弱り、乗艦している人員が多かった中で暑い季節だったので、チフスや天然痘が発生した。ドン・ルイス・デ・コルドバ(合同艦隊では副指揮官だった)が指揮するスペイン艦隊は36艦の戦列艦を擁し、やっと7月22日に到着した フランス北部のル・アーヴルとサン・マロ周辺には緩りと4万名を超える陸兵が集められ、また400隻の輸送船もあった。合同艦隊の目標はイギリス艦隊を動けなくしている間に、陸軍が安全にイギリス海峡を渡り、ワイト島あるいは近くの本土海岸で基地を造り上げてしまうことだった。イギリス艦隊は当時イギリス海峡に40艦足らずの戦列艦を配置し、その指揮官は20年間デスクワークを続けていた64歳のチャールズ・ハーディが就いたばかりだった。7月25日、フランス・スペイン合同艦隊は北に進発し、イギリス艦隊の捕捉を目指したが、逆風のためにその進行は鈍かった。時間の経過とともに、フランス艦隊で蔓延していた病気が、スペイン艦隊でも広がったのが明らかになってきた。ドルビリエ伯爵の一人息子で艦隊の海軍大尉も犠牲になった。また、西インド諸島からのイギリス商船隊2つを捕える機会を見過ごしていた(後にそれらが居たことを知った)。それらは7月31日にプリマスに到着した。合同艦隊は8月11日にウェサン島を過ぎ、イギリス海峡に入った。その3日後、アメリカ国旗を掲げた戦隊(ただしフランス人船員の乗ったフランス船が大半)がフランスのロリアン港を出航した。この戦隊は陽動部隊として北のアイルランドに向かった。この戦隊の指揮を執っていたのはイギリスで恐れられるようになっていた大陸海軍のジョン・ポール・ジョーンズ船長だった。
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