イスラム同盟とは? わかりやすく解説

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サレカット・イスラム

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 03:27 UTC 版)

サレカット・イスラムSarekat Islam[1]は、20世紀初頭、オランダ領東インド(現インドネシア)で結成されたイスラーム系大衆団体である。日本語では「イスラム同盟」と訳される例も多い[2]。略称はSI


出典

  1. ^ インドネシア語では「イスラム」を「イスラーム」と長音で発音しないので、現地語の発音からカタカナで表記すると「サレカット・イスラム」となる。
  2. ^ 日本語での「イスラム同盟」は、ほぼ定訳といってよい。例えば、専門家の間では、永積(1980年)白石(1997年)ら多くが「イスラム同盟」と表記している。一方、SI指導者の一人、ハジ・アグス・サリムの生涯と思想をテーマにした間苧谷(1970年)は「サレカット・イスラム」を使用し、また、成立期から初期にかけてのSIについての研究を複数発表した深見は、初期の論文では「イスラム同盟ことサレカット・イスラム」と断った後で「イスラム同盟」を用いたが、深見(1978年)では「サレカット・イスラム」のみを用いている。他にも「サリカット・イスラーム」「イスラーム同盟」と訳された例があるが、定着しているとは言い難い。SIの日本語訳をめぐる問題については、桃木至朗「東南アジア史 誤解と正解」(第4回全国高等学校歴史教育研究会、2006年8月2日、大阪大学)(PDF文書)を参照。本項目の項目名は、この団体名が固有名詞であることに鑑みて、現地語発音から「サレカット・イスラム」とした。
  3. ^ サレカット・ダガン・イスラム (SDI) の成立事情については、深見、1975年、116-118頁、を参照。
  4. ^ 当時のオランダ領東インドでは、ヨーロッパ人 Europeanen 、東洋外国人 Vreemde Oosterlingen 、原住民 Inlanders の3つの人種的区分があり、それぞれ法的地位が異なっていた。華人とアラブ人は東洋外国人に属していた。深見、1975年、125頁、脚注20
  5. ^ アラブ人商人がイスラームを媒介にして原住民商人と手を結んだのは、19世紀末以来、華人がヨーロッパ人と同等の商法刑法上の地位を獲得しつつあったことにアラブ人商人が脅威を感じていたからでもあった。深見、1975年、116頁
  6. ^ 永積、1980年、148頁。また、1912年9月にチョクロアミノトが作成したSI規約で、名称をSDIではなくSIとした理由についての分析は、深見、1975年、122頁、を参照。
  7. ^ Shiraishi, 1990、p.49. チョクロアミノトは、大衆動員の三大技術、(1) ジャーナリズム(機関誌の発行)、(2) 団体の組織と運営、(3) 集会と演説、を初めて結びつけて、数十万の原住民の動員に成功した、インドネシア人最初の職業政治家だった。白石、1997年、10頁
  8. ^ 間苧谷、1970年、161頁。もっとも、こうした会員数の増加について、白石は、その会員数の集計は各地で開催されたSIの集会に参加料を納めた参加者たちの数であった、と指摘している。白石、1986年、191-192頁、を参照。
  9. ^ アラブ人の排除の理由として、東インド在住のアラブ人が華人と和解する動きを見せたこと、アラブ人自身が「原住民」を搾取していると批判があったことなどが挙げられる。深見、1975年、117-118頁
  10. ^ Van Niel, 1960, p.113間苧谷、1970年、161頁
  11. ^ 植民地政府が承認したSI地方支部は、1919年までにジャワで105支部、外島(ジャワ以外)で100支部に達した。深見、1978年、74頁永積、1980年、155頁
  12. ^ 深見、1977年、160-161頁
  13. ^ 中央SIが地方支部の寄せ集めにすぎなかったことについては、深見、1977年、158頁、を参照。また、地方におけるSI指導者の出自や背景については、深見、1978年、76-81頁、に地方SI指導者の称号と職業をまとめた表が掲載されている。
  14. ^ 東インド社会民主主義同盟(ISDV) の党名はオランダ語表記(Indische Sociaal-Democratische Vereniging) である。東インドに共産主義運動を持ち込んだヘンドリクス・ヨセフ・フランシス・スネーフリートであったが、1917年から1920年にかけて、植民地政府はスネーフリートをはじめとするオランダ人共産主義者を次々と国外退去処分にしたため、以後の東インドにおける共産主義運動は、スネーフリートの下に学んだ「原住民」党員(スマウン、ダルソノ、アリミンなど)によって担われていくことになる。1920年5月の第7回党大会で名称を東インド共産主義同盟(Perserikatan Kommunist di India, インドネシア語表記)に改めると、この党大会での議決により、議長にスマウン、副議長にダルソノが就任した。さらに党名がインドネシア共産党 (Partai Komunis Indonesia, 略称PKI) に変更されるのはその4年後である。
  15. ^ 永積、1980年、199-200頁
  16. ^ SI内部に共産党員を送り込み、組織全体を共産党の影響下に置こうというスネーフリートの戦略は、のちに中国においても国共合作として結実した。McVey, 1965, pp.364-369, 永積、1980年、200頁
  17. ^ 間苧谷、1970年、162-163頁
  18. ^ 当初の植民地議会は総督の諮問機関に過ぎなかった。20世紀初頭、植民地に「倫理政策」を導入したオランダは、植民地住民に自治を教え、その自治に耐えうるように成熟せしめるための自治政策の一環として、このような植民地議会を設置した。早瀬・深見、1999年、286-287頁
  19. ^ 間苧谷、1970年、163-164頁
  20. ^ 間苧谷、1970年、164頁。地方暴動については、永積、1980年、209-214頁を参照。
  21. ^ 地方における暴動と、その後のSI幹部の逮捕を目の当たりにした一般会員は、SIの会員証はトラブルのもとであると恐れて運動から離れていった。この頃からSIの大衆的支持基盤は急速に萎んでいくことになった。Ricklefs, 1993, p.174.
  22. ^ 間苧谷、1970年、166頁永積、1980年、159頁
  23. ^ 間苧谷、1970年、164頁Shiraishi, 1990, pp.219,220.
  24. ^ Van Niel, 1984, p.154.
  25. ^ スマラン派とジョグジャカルタ派の対立については、間苧谷、1970年、168頁永積、1980年、229-230頁、を参照。
  26. ^ 間苧谷、1970年、168-169頁永積、1980年、229-230頁
  27. ^ 間苧谷、1970年、171頁。一方、1924年にインドネシア共産党 (PKI) と名称を変えたISDVは、政府との対決、革命を訴え、植民地政府によってスマウンら党幹部が海外に追放された。その後、組織の求心力を失い、地方支部の急進化・独走を許すことになった。1927年から1928年にかけてPKI地方支部が武装蜂起を起こし、PKIは非合法化された。
  28. ^ 間苧谷、1970年、176頁白石、1997年、15-16頁
  29. ^ のちにイスラーム保守派は、1926年ナフダトゥル・ウラマーを結成、政治活動とは一線を画すことになる。Ricklefs, 1993, p.177 を参照。
  30. ^ SI党のイスラーム諸団体との共闘の試みについては、間苧谷、1970年、171-175頁、を参照。
  31. ^ 間苧谷、1970年、172-176頁
  32. ^ Ricklefs, 1993, p.191. その後、除名されたアグス・サリムとモハマド・ルムは新党プニュダールを設立した。間苧谷、1970年、180頁
  33. ^ この決定に反対し、非協力路線に固執して組織を脱退したのが、のちにダルル・イスラム運動(独立後から1960年代にかけて起こったイスラーム国家樹立運動)の指導者となるセカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨだった。間苧谷、1970年、181-182頁
  34. ^ 早瀬・深見、1999年、307-308頁
  35. ^ 日本軍政当局のイスラーム政策については、倉沢、1992年、第9章「イスラム宣撫工作」を参照。
  36. ^ 首藤、1993年、70頁、脚注9
  37. ^ イスラーム諸政党の開発統一党への統合については、大形、1995年、149-150頁、を参照。

人物略歴

  1. ^ ティルトアディスルヨ (Raden Mas Tirtoadisoerjo, 1880 - 1918) は、オランダ領東インドにおけるジャーナリズム、民族主義運動の先駆者の一人。原住民官吏養成学校 (OSVIA) を卒業後、原住民官吏とはならずに雑誌編集者になった。1903年、21歳にして花形編集者として名声を確立していた彼は『スンダ・ブリタ』という新聞を自らの手で発刊。これは原住民によって出資、運営、編集、刊行された初めての新聞となった。1907年、週刊誌『メダン・プリアイ』を発刊(1909年からは日刊紙となる)、1911年のその購読者数は2000人に達した。Van Niel, 1984, pp.89-90, Shiraishi, 1990, p.33,34.
  2. ^ ハジ・サマンフディ (Haji Samanhudi, 1868 - 1956) は、ソロ(スラカルタ)の商人。父を継いでバティック業者となり、ジャワ島各地に支店網を拡げた。Van Niel, 1984, pp.88-89
  3. ^ チョクロアミノト英語版 (Haji Umar Said Tjokroaminoto, 1882 - 1934) は、中部ジャワ・マディウン生まれ。父親が植民地政府で働く原住民地方行政官(郡長)であったことから、オランダ語で授業を受ける原住民官吏養成学校に入学、1902年に卒業。数年間官吏として過ごし、その後職を転々とする。1912年5月にSIスラバヤ支部に加入。サマンフディに代わりSI議長に就任。Van Niel, 1984, pp.92 後に初代大統領となるスカルノは、父親がチョクロアミノトの友人だった関係から、スラバヤでの学生時代、SI議長を務めていたチョクロアミノト宅に下宿した。永積、1980年、249頁早瀬・深見、1999年、303頁、を参照。スカルノがチョクロアミノトから受けた影響については、白石、1997年、10-12頁、を参照。
  4. ^ スマウン (Semaun, 1899 - 1971) は東ジャワパスルアン生まれ。父親は鉄道員で、スマウン自身も10代の頃から国営鉄道で働いた。その労働組合運動で頭角を現し、SI、ISDV (1924年にPKIと改称) に参加する。1923年に植民地政府によって東インドを追放される。1956年に帰国し、その後のPKIの活動には関与しなかった。
  5. ^ ダルソノ (Raden Darsono, 1897 - ? ) は、下級貴族の家系に生まれ、学校ではプランテーションの農場長となるべく教育を受けた。卒業後は農業省所属の土壌専門家となったが、2年も経たないうちに職を辞した。その後、読書、特にマルクス主義の著作を読みふけった。そんな中、オランダ人ながら東インド原住民の権利拡大のために戦っていたスネーフリートと出会った。Van Niel, 1984, p.141,142.
  6. ^ アリミン (Alimin, 1889 - 1964) は、スラカルタ生まれ。チョクロアミノト宅に起居してその薫陶を受け、SIに参加。その後ISDVにも加入し、草創期のインドネシア共産主義運動の礎を築いた。1927年、1928年のPKI蜂起によって組織が壊滅的打撃を受けると海外に脱出。独立戦争期に帰国し、マディウン事件後のPKI再建に関わった。その後、アイディットとの党内主導権争いに敗れ失脚。
  7. ^ スルヨプラノト (Raden Mas Surjopranoto, 1871 - ? ) は、ジョグジャカルタのパク・アラム王家の出身(弟はキ・ハジャール・デワントロことスワルディ・スルヤニングラット)。原住民官吏養成学校 (OSVIA) を卒業。中央SI理事、SIジョグジャカルタ支部長だった1918年、製糖工場従業員組合 (PFB) を結成。Van Niel, 1984, p.154. スルヨプラノトの経歴については、Shiraishi, 1990, pp.109-111 を参照。
  8. ^ モハマド・ルム (Mohammad Roem, 1908-1983) は、中部ジャワ出身。高等法学校で学んで弁護士となった。インドネシア独立後はマシュミ党の指導者の一人として、内務大臣、外務大臣、副首相を歴任した。


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