グラン戦争
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イスラム諸国の中にあるとされるプレスター・ジョンの伝説は、1487年のバルトロメウ・ディアスの航海の目的の一つとなるほどポルトガルの人々を魅了していたが、大航海時代が下るに従って一旦は熱が冷めた状態となっていた。だが、ペルシア湾やインド洋のイスラム商人と競争相手として対峙するようになると、イスラム諸国の中でのキリスト教国の存在は同盟相手として注目を集めるようになっていた。その中でエチオピアに特に関心を寄せたのはポルトガルであった。書簡から始まったやりとりは、やがてはポルトガル艦隊のエチオピアへの寄航の許可へと繋がっていく。だが、エチオピアの北にはトルコ艦隊の停泊するスエズがあり、寄港地の提供は明白な敵対行為とみなされたためにイスラム諸国との間で緊張が高まった。1525年前後になるとついにオスマン帝国が動き、後押しされる形でアダルの軍人アフメド・イブラヒム・ガジ(通称、左利きを意味する「グラン」)を指揮官に抱いたイスラム軍がエチオピアに攻め込んでくる。この突如として出現したイスラム軍に対してエチオピアの皇帝ダウィト2世(生名レブナ・デンゲル)は11歳と幼く、領土を蹂躙するガジの軍勢に対して無力だった。デンゲルはポルトガルに援軍を依頼し、自らは修道院に逃げ込む。潜伏先でデンゲルは再起をはかったが、存命中に願いは果たれることなく、その修道院は彼の終の棲家となった。皇帝のこの境遇とその果ては研究者に強い印象を残し、この時期はエチオピア帝国の「暗黒時代」と呼ばれている。一方、ガジの動きによって属国からの独立を目指していたアダルだったが、スルタンのアブンが暗殺されるとその混乱に乗じたガジとオスマン帝国軍によって征服される。ガジはこの地でイスラムの純化活動を行い、自らの戦争を聖戦(ジハード)と称した。 1535年、聖職者を通じてエチオピアはポルトガルに対して援軍を要請する。これに対するポルトガルの対応は緩慢で、ヴァスコ・ダ・ガマの息子のクリストヴァン・ガマを含む数百人 の援軍がエチオピアに到着したのは1541年であり、すでに救援を求めた皇帝ダウィト2世は死去していた。1542年4月、ポルトガル遠征軍と後継のエチオピア皇帝ガローデオスの軍勢はイスラム軍と交戦して、この初戦は勝利を収める。しかし、8月のウォフラの戦いでは兵力差、特に騎兵の差があらわとなってポルトガル軍は敗北した。ガマの息子も、この戦いで捕らわれて斬首された。敗戦による痛手を負ったポルトガル軍だったが、イスラム軍の追撃を免れることはできたために再編成して陣容を立て直すことには成功する。1543年、再びポルトガル遠征軍は皇帝ガローデオスとともにタナ湖付近でイスラム軍と交戦した。この戦いにおいて、ポルトガル遠征軍がイスラム先鋒のオスマン帝国の火縄銃部隊を壊滅させると、綻びをみせたイスラム軍にガローデオスの軍が死に物狂いの攻勢をしかけ、ついには指揮官のガジを戦死させた。ガジの死によってイスラム軍は崩壊し、ソロモン朝はようやくイスラム教徒の領有から解放された。エチオピアの属国から反乱に組したアダルも、1559年に南部から移動してきたオロモ人の襲撃を受けて衰退が決定的となる。その代わりにエチオピアは、遊牧によって衝突を起こすオロモ人と、分離独立傾向のあるティグレ人という二つの社会不安を抱えることになった。また、外部のイスラム教徒との諍いはこれで解決したわけではなく、以後も周辺のスルタンの侵略は度々発生する。その結果、ガローデオスを始めとするその後継たちは、度々イスラム軍との戦闘によって命を落とした。これはポルトガルがエチオピアを「反イスラム同盟」の先鋒とする戦略のためであり、1632年に即位したファシラダスの不信を招く。また、即位の経緯にはポルトガルの布教したカトリックとエチオピア正教との対立による政情不安があり、首都をゴンダルに移すとともに鎖国政策を実施し、安定を取り戻したエチオピア帝国は繁栄の円熟期を迎えることになる。
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