写本研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 03:44 UTC 版)
20世紀に入ると、ハーフェズ詩のテキスト校訂がハーフェズ研究の中心になった。他の詩人については、この時点ですでに本格的な文学研究や討論に耐えうる校訂本が作られていたが、ハーフェズの場合はこうした取り組みの開始時期が、比較的遅くなった。理由は、ハーフェズ詩の中心がマスナヴィーやカスィーダといった長詩系の形式でなく短詩系の形式であったこと、詩人の活躍時期からさほど離れていない時代に多数の写本が作られており写本の系統付けが難しいことなどがあるが、最大の理由は、ハーフェズがペルシア文化を象徴する存在であるため手が出しにくいという点にあったとされる。 ハーフェズの「ディーワーン」(詩集)には知られているだけで1000種の異本があり、底本作りは困難を極める。そもそも各異本の「オリジナル」が歴史的に存在したのかどうかも不明である。ハーフェズ自身がヒジュラ暦770年(西暦1368年)にディーワーンを制作したと言われているが、客観的な証拠は何一つない。他方で、古いハーフェズのディーワーンの写本には「ゴルアンダーム序文」と呼ばれるものが付されているものが多数ある。これには、モハンマド・ゴルアンダーム(Moḥammad Golandām)という人物がハーフェズの没後、産み出されてそれっきりになっているハーフェズの作品をまとめたというようなことが書いてある。この序文や初期情報源(後述)の研究に基づくと、ハーフェズのディーワーンのオリジナルは、それが口承で伝わったものであるにせよ、書承で伝わったものであるにせよ、複数存在した(これらディーワーン群を以下、便宜的に「オリジナル」と呼ぶ)ということが言える。 ハーフェズのディーワーンは時代が下り、改訂を重ねれば重ねるほど収録作品の数が増える。これは詠み人知らずの作品がハーフェズの作ということになったり、単純にミスで他の詩人の作品が紛れ込んだりしたためである。上記「オリジナル」はガザル形式のものに限っても500作品ほどあったと推定される。しかしそれでも同時代のガザル詩人に比べると、ハーフェズは非常な多作家である。仮に詩人の生涯を詩作を始めてから40年とすると、平均して1箇月に1つ、ガザルを作っていたことになる。 ディーワーン以外にも、ハーフェズ作品のテキスト校訂の根拠に使える情報源はある。むしろハーフェズの場合は例外的にこちらの方が主であり、詩人の存命中からその作品は同時代のアンソロジーの中に収録されている。これら初期情報源(early sources)の一つが、デリーのスルターン・フィールーズシャー・ブン・モハンマド・ブン・トグログ(在位1351年-1388年)のために編まれた弁論術の本である(具体的な書名は Majmuʿa-ye laṭāyef o safina-ye ẓarāyef)。本編の1章がペルシアの詩人の作品紹介になっており、ハーフェズのガザル詩も127作品が引用されている。
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