イランにおける現代のポップ・ミュージック
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「イラン・ポップ」の記事における「イランにおける現代のポップ・ミュージック」の解説
1990年代、イラン公式政府はカリフォルニア州などイラン国外で製作されていた「正式でない」イラン・ポップ (LAタイプと呼ばれていた) に対抗して、「正統な」イランのポップ・ミュージックを生産し販売を促進していくことを決断した。詩人のアリー・モアッレム (Ali Moallem)とミュージシャンのフェリドゥーン・シャフバーズィアーン(ペルシア語版)は国内のポップ・ミュージック復活に向けイラン・イスラム共和国放送 (IRIB) で結成された評議会の代表となった。 シャードメフル・アギーリー(英語版) (イラン・ポップの王様と呼ばれた)、Khashayar Etemadi、モハンマド・イスファハーニー(英語版)のような歌手は、国営放送による広報活動を含め新たなポップ・ミュージックを創作していくというこの評議会の目標にすぐに賛意を示した。 国内のポップ・ミュージックは多くの人々に暖かく迎えられた一方で、歌詞、音楽、文化的なインパクトを含め表層的で内容の薄い音楽であるというエリート層による批判もあった。大衆の傾向に不満であったのか、後にフェリードゥーンは評議会脱退を決断し公式にこの音楽を批判する側に回った。 イランのポップ・ミュージックは厳しい規定から成り立っている。公の場で公演を行う、もしくは音楽の販売を行う際には、イランのイラン文化・イスラム指導省(英語版) (エルシャードとして知られる) による許可が必要である。また、1つのアルバムを発売した場合、新たなアルバムを発売するまでに3年経過している必要があり、経過していなければ発売許可がおりない。 イランの大統領モハンマド・ハータミーのもとイラン国内の文化制限が緩和された結果として、複数のイラン・ポップ・シンガーが国内から登場するようになった。現政権が政務を取り仕切る様になって以降、イラン文化・イスラム指導省は異なる施策を採用しており、これは主に音楽産業への監視の緩和に結びついた。新政策には少数の歌手に対する制限の緩和と残りのミュージシャンに対する制限強化が含まれていた。 アーティストにとって、アルバム発売許可を得ることはより困難になったものの、国内のアルバムの販売数は増加傾向にある。この理由としては、アーティストがまだ前のアルバム発売に対する許可をもらっていない内に、次のアルバムを制作する許可を求め始めたことが挙げられる。 イラン・ポップ初のバンドであったアーリアン(英語版)はイラン革命後に結成され、以降大きな成功を収めてきた。アーリアンはイラン・ポップの新たな1ページを切り開いたバンドである。彼らのデビュー・アルバム『ゴレ・アフターブガルドゥーン』 (ヒマワリ、گل آفتابگردون) は2000年にリリースされ、イラン国内で大きな成功を収めた。 イラン・ポップのバンドとして知られる音楽バンドには、他にアリーレザー・エフテハーリーのような形態を取るものがある。エフテハーリーはイラン・ポップの新たなジャンルを切り開く際に大きな影響を与えた。この方法を創始した際の困難の過程について、彼は以下のように述べている。「イランの音楽文化にポップ・ミュージックを組み入れるためには、私自身がスケープゴートとならなければならない。」 2009年末、シールヴァーン・ホスラヴィー(英語版)はヨーロッパのラジオ局で局が繰り返しオンエアされた初のイラン人アーティストとなった。彼は自身二枚目のアルバムの表題曲「サーテ9」 (Saate 9) でデビューを果たし、イランのオンラインメディアにおいてトップを飾った。 2010年8月末、ファルザード・ファルズィーン(英語版)は彼の3枚目のアルバム『シャーンス(ペルシア語版)』に収録されている2つ目の楽曲「チーケ・チーケ」 (Chikeh Chikeh、چیکه چیکه) でヨーロッパのミュージック・チャートにデビューを果たした。 2012年、シールヴァーン・ホスラヴィーはFunXラジオ局において、「Na Naro」という楽曲で2回1位を獲得した。
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