近代の歴史
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「シャトー・オー・ブリオン」の記事における「近代の歴史」の解説
困難な時期が続いて、どの所有者も不成功に終わった後、1935年5月13日、アメリカの銀行家クラレンス・ディロンがシャトー・オー・ブリオンを 2,300,000 フランで購入する。この獲得にまつわって真偽のはっきりしない逸話がいくつか出回り、ディロンは、シャトー・シュヴァル・ブラン、シャトー・オーゾンヌやシャトー・マルゴーの大部分をも購入しようとしていると思われていた。しかし彼は、雨や寒い日に出かけることを好んだわけではなく、ボルドーや乗馬施設への交通の便の良さでオー・ブリオンを選んだという。ディロンは車から降りようともしなかったという逸話も存在する。 ディロンは、甥のセイモア・ウェラーを新会社「 ソサイエティ・ヴィニコール・ド・ラ・ジロンド Société Vinicole de la Gironde 」(のちにドメーヌ・クラランス・ディロン社 Domaine Clarence Dillon S.A. と改名)の社長に据える。彼は50年間この仕事を務めた。ウェラーは庭園を整備し直し、ワイン蔵を清掃し、新しい醸造装置と電気を導入した。彼はジョルジュ・デルマスを、オー・ブリオンの支配人兼責任者として1921年から雇用、ジョルジュはシャトー・コス・デストゥルネルの農場責任者も務めた。 オー・ブリオンは最初に、古いデキャンターの型を模したその特徴的なボトルを1958年のヴィンテージ(発売は1960年)から使用し始めた。 ジョルジュ・デルマスは1961年に引退、オー・ブリオンで生まれ育った息子のジャン=ベルナール・デルマスが後を引き継ぎ、いくつもの革新に取り組んだ。。1960年代、オー・ブリオンは大きな生産所としては初めて、新しくステンレス鋼の発酵タンクを導入した。1972年にはINRAと農業省の協力を得て、分枝栽培のクローン選別の研究に取り組み始めた。。たった1種類のクローンからでは素晴らしいワインは生まれないと主張して、ジャン=ベルナール・デルマスは、「優れたクローンがたくさん要る」そして「我々は、それぞれの木がどこに植わっているかを知っている」と述べた。オー・ブリオンでは、ヘクタールごとに10~15の異なった選別のクローンが植わっていたにもかかわらずである。 1975年、83歳でセイモア・ウェラーは社長を引退した。彼のいとこの娘でクラランス・ディロンの孫娘、ルクセンブルク大公国大公子シャルル・ド・リュクサンブール妃、のちのムシー公爵夫人ジョアン・ディロンがその責を継いだ。1976年には、歴史的なワインの品評会「パリの審判」で、フランスやカリフォルニアの赤ワインの中からオー・ブリオンの1970年のヴィンテージが、第4位に位置付けられた。 オー・ブリオンとシャトー・ラ・ミッション・オー・ブリオン Château La Mission Haut-Brion とは、数年にわたって激しい競争関係にあり、1970年代から1980年代初期にそのピークを迎えたが、ドメーヌ・クラランス・ディロンが1983年にラ・ミッションを購入することでその競争も終了している。 2007年のヴィンテージ以降、ディロン家が所有権を得て75周年になるのを記念し、新しくセカンド・ワインがラ・クラランス・ド・オー・ブリオン Le Clarence de Haut-Brion の名で発売されている。シャトー・バーン・オー・ブリオン Chateau Bahans Haut-Brion の名は、ヴィンテージの表示なしで販売された期間、少なくとも1世紀にわたって使われていた。 支配人のジャン=ベルナール・デルマスは2003年に引退し、彼の息子のジャン=フィリップ・デルマスが後を継いだ。ルクセンブルク大公国公子ロベール・ド・リュクサンブールは、18歳からオー・ブリオンの取締役を務め、2008年にはドメーヌ・クラランス・ディロンの副社長となった。
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近代の歴史
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近代に入り、ギリシャ人とブルガリア人の間でブルガリアの教会の管轄を巡る20年間にも及んだ争いの結果、1870年2月28日、オスマン帝国のスルタン:アブドゥルアジズによって独立したブルガリア正教会が設立されるに至った。設立された教会はブルガリアのエクザルフ教区として知られる。首座主教には「総主教」ではなく、エクザルフの称号が与えられた。これによりブルガリア正教会はギリシャ人が主体のコンスタンディヌーポリ総主教庁から独立した。ブルガリアのエクザルフはオスマン帝国の首都であるコンスタンディヌーポリに居住した。 750年から独立正教会となっていたグルジア正教会の首座主教は、1008年から「イベリア(コーカサス)のカトリコス・総主教」の称号を有していた。1802年に、ロシア帝国がグルジア正教会の独立性を破壊してのち、グルジア教会の首座(常にロシア人であった)は「グルジアのエクザルフ」の称号を有しつつ、サンクトペテルブルクにあった聖務会院に席を有していた。1917年4月7日、グルジア総主教座は「全グルジアのカトリコス・総主教」のタイトルのもとに復活した。その独立性はロシア正教会により1943年に承認され、コンスタンディヌーポリ総主教庁からは1990年3月3日に承認された。 こんにちの正教会においては、エクザルフはふつう、総主教の代理である。多くの場合、総主教に代わって、総主教庁の地元から離れた教会の管轄を行う。従ってアメリカ合衆国には、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、エルサレム総主教庁を代表するエクザルフが居る。アメリカにおけるエルサレム総主教庁のエクザルフの称号は「聖墳墓のエクザルフ」である。 1972年、メキシコのジョセ主教(Bishop Jose)とメキシコ・ナショナル教会が、ダラスのディミトリ大主教とともに、アメリカ正教会に「メキシコ・エクザルケート」として受け入れられた。
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近代の歴史
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「エーベルス・パピルス」の記事における「近代の歴史」の解説
エドウィン・スミス・パピルスと同様に、エーベルス・パピルスは1862年にエドウィン・スミスによって所有された。パピルスの出所は分かっていないが、テーベの共同墓地にあるアサシーフ地区にあるミイラの脚の間から発見されたと言われている。少なくとも、"a large medical papyrus in the possession of Edwin Smith, an American farmer of Luxor."の宣伝として古物商のカタログに載せられて世間に公表された1869年までは、エドウィン・スミスによって所有されていた(Breasted 1930)。その後、1872年にドイツのエジプト学者で小説家のゲオルグ・エーベルスが購入し、その名前が名づけられた。1875年に、エーベルスは英語とラテン語の語彙と序文を付けたファクシミリ版を出版したが、全文訳は1890年にH. Joachimが初めて行った。エーベルスがライプツィヒエジプト学会の会長を退任した後も、エーベルス・パピルスはライプツィヒ大学の図書館に残された。パピルスの英語訳はPaul Ghaliounguiによって公表された。
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