近代の有村と脇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 15:22 UTC 版)
江戸時代の有村は大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では66石余、「郡村高辻帳」では66石余、「三州御治世要覧」では118石余、「旧高旧領取調帳」では31石余であった。有村には薩摩藩主島津氏の別荘である御仮屋が置かれていた。 また、脇村は江戸時代より見える地名であり、有村と同じく大隅国大隅郡桜島郷のうちであった。脇村の石高は「天保郷帳」では155石余、「郡村高辻帳」では155石余、「三州御治世要覧」では133石余、「旧高旧領取調帳」では34石余であった。薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」によればかつては脇村には瀬戸村(現在の黒神町の一部)が含まれていたとされている。 安永8年(1779年)11月8日に桜島の噴火が発生した(安永大噴火)。史料において噴火の開始位置は「有村の上」又は「古里の上」と記載されている。概ね古里村(現在の古里町)と高免村(現在の高免町)を結ぶ線上に火口が発達した。噴煙について「年代記」には「有村の上,燃之頭の辺より黒煙何里となく上り」と記載されている。飛来した火山弾によって村の家々が炎上した。井村隆介(1998)は噴火開始から30時間以上経過した翌9日に火口の南側へ溶岩が流出し、その翌日となる10日には海岸に到達したのではないかと推測している。火口から噴出した溶岩は有村を覆い、住民らは垂水に避難した。旧南林寺(南林寺町)にある「桜島燃亡霊等の碑」によれば有村の死者は57名、脇村の死者は34名であった。また有村には温泉があったが溶岩によって埋没した。 1879年(明治12年)頃には有村温泉が開設された。1885年(明治18年)には鹿児島県によって石室や試験園と呼ばれる娯楽場が建設され、その隣には共同浴場が開設された。 1887年(明治20年)4月2日には「 鹿兒島縣下分郡ノ件」(明治20年勅令第7号)により大隅郡が南北に分割され、有村及び脇村は北大隅郡の所属となった。
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