近代の政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:18 UTC 版)
行政区画の変遷については「川越市の町名」を参照 1889年の町村制施行に伴い、川越連合戸長下の6町村と小仙波村・野田村の3字を加えて川越町が発足した。当時の人口は2813戸、16150人であった。 この頃には士族よりも有力な商工業者や農民が力を付けており、士族出身の議員は24人中3人のみであった。ただし初代町長岡田秋葉は士族出身者で、副戸長・連合戸長や郡役所書記を務めた人物であった。 また入間郡・高麗郡の郡役所も川越に置かれ、1896年の両郡合併、1923年の郡役所廃止まで入間郡の中心の町となった。 この頃になると埼玉県成立から長い年月が経ち、交通も専ら中山道・高崎線経由が主流になることで、川越の将来を危ぶむ声も上がっていた。その中で、「入間郡誌」の著者でもある安部立郎は、他町村に先駆けて川越が市制を布くことで、市政の方針を確立させ、立ち遅れた川越の発展を図ろうと考えた。「川越が市制を行うのは時期尚早」との声もある中、1922年に仙波村と合併することによって埼玉県で初めて市制を施行した。
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