近代の改修
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 07:02 UTC 版)
1945年戦災概況図。改修前であり当時の鷹取川も確認できる。 明王台およびそれ以東(河口から約8km付近)。写真上から右下へ伸びる道路が旧・鷹取川の名残。写真当時(1974年)は中洲で草戸千軒発掘が行われている。発掘のため制限しているとはいえ流量不足が確認できる。 1919年(大正8年)7月、梅雨前線による洪水により、府中・駅家・神辺・福山中心部、つまり現在の中流域から下流域を襲う大規模な洪水が発生する。被害状況は、死者23人、家屋全壊226戸、家屋半壊190戸、床上浸水770戸、床下浸水5468戸。 これを契機に、芦田川の府中から下流側の治水工事が決定し、1921年(大正10年)に着工した。その中で最も大きな事業が、鷹取川を廃川にし埋め立て、その付近の中洲を掘削し芦田川を拡幅する工事であった。この工事の最中、1930年(昭和5年)には江戸時代に消滅して存在自体忘れ去られていた草戸千軒町で陶磁器や古銭等が多数出土している。 戦時中は工事を中断する。1945年(昭和20年)8月8日の福山大空襲の際には、一部の市民はこの川へ避難してきている。同年9月、大型の枕崎台風による洪水では中流域を中心に大きな被害となった。被害状況は、死者85人、家屋全壊122戸、家屋半壊84戸、家屋浸水2714戸、冠水面積1135ha。 戦後、芦田川改修工事を再開し、合わせて枕崎台風被害の復旧工事も行われた。また、下流域の農業用水確保のため灌漑専用ダム建設が決定し、1949年(昭和24年)に着工、1960年(昭和35年)に三川ダムとして竣工した。 1961年(昭和36年)、大正時代から続いた大規模改修はほぼ完成した。また、同年から草戸千軒町遺跡の大規模な発掘調査を開始している。
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