近代の教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
1872年には国民皆学を掲げ官立女学校が設立され、津田梅子、山川捨松、永井繁子ら5人が海外留学に派遣された。しかし財政難を理由に女子留学は1回だけで打ち切られ、官立女学校も5年後には廃止されて女性に対する中等以上の教育は民間にゆだねられた。これらの受け皿となったのがミッションスクールであり、今日まで女子教育の重要な役割を果たしてきた。 女性の中等教育は「良妻賢母」を強要するものであった。1893年に井上毅は「男女の生理的差異を元にその役割の違いと固有の性能を固定化して強調する」とし、1895年の高等女学校規定や1899年の高等女学校令の理念に影響を及ぼした。こうした中での教育は科学的知識や思考ではなく、家庭生活の中での手わざに重点が置かれた。また女性の上級教育への進学は阻まれた。1907年には義務教育が6年に延長され、この頃には女子の就学率も97%になっていた。しかし教育内容は女性の国民的自覚と家庭での役割を強調するもので、男女の役割分担を繰り返し教えた。
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