出土地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:18 UTC 版)
1914年(大正3年)、九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。その推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された。その後、1958年(昭和33年)と1959年(昭和34年)の2回にわたり、森貞次郎、乙益重隆、渡辺正気らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された。ただし、志賀島には金印以外の当時代を比定できる出土品が一切なく、志賀海神社に祀られる綿津見三神は漢ではなく新羅との交通要衝の神であり直接の繋路はまだ見出されていない。 1973年(昭和48年)及び1974年(昭和49年)にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている。
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