出土土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 03:12 UTC 版)
土器片が下記個体分、墳丘上から出土。 後方部西裾とくびれ部で二重口縁壺2個体、後方部南裾から集中出土した中型直口壺1個体、小型丸底鉢4個体、甕1個体、手捏土器1個体、高坏15個体以上、壺底部7個体。摩滅が著しい細片がほとんどである。
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出土土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 19:35 UTC 版)
1939年(昭和14年)、安威川改修工事にあたり、元溝咋神社上宮隣接地より土師器、須恵器等が多数出土し、溝咋神社に保管された記録が残されている。 なお、上宮跡とその周辺は「溝咋遺跡」にあたり、1997年(平成9年)に行われた公益財団法人大阪府文化財センター(旧・大阪府文化財調査研究センター)による発掘調査では、古墳時代の小区画水田や奈良・平安時代の遺物、また中世後半代の溝咋上宮跡と見られる方形区画の遺構が検出されている。
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出土土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
高尾山古墳からは出現期の古墳としては極めて多くの土器が出土している。土器は墳丘の頂部、周溝内そして墳丘の盛土から出土しており、古墳祭祀で使用されたと考えられる小型壺、小型鉢、直口壺が周溝内から大量に発掘されていることが特徴に挙げられる。また後述のように地元静岡県東部の土器が主体であるが、北陸系、近江系、東海西部系、関東系といった外来系の土器も出土している。しかし畿内系の土器が一つも見つかっていないことも特徴の一つとして挙げられる。更に出土した土器の製作年代が比較的長期に及ぶと見られることも特徴に挙げられる。 主体部上部からは二重口縁壺、大型壺、高坏、パレススタイル壺、S字壺が出土した。パレススタイル壺とS字壺は破片状になっており、墓坑の埋土にまで混入している。一方、二重口縁壺、大型壺、高坏は被葬者の埋葬を意識した配置がなされていたと考えられる。うち高坏の位置づけがはっきりしない点が残るものの、二重口縁壺と大型壺は後述の大廓式の年代観では様式3のものと考えられ、この時期に被葬者の埋葬が行われたと考えられる根拠となっている。また墳丘内から出土した土器は大廓式の様式1の時期のものとされ、この時期が古墳築造の時期と判断される材料となった。出土した土器から想定される高尾山古墳の築造年代はおおむね3世紀前葉とされ、これは副葬品から想定される年代よりも明らかに古く、高尾山古墳をめぐる最大の論争点となった。 そして周溝とその周辺からは大量の土器が出土している。出土した土器の年代は比較的長期間に及び、また一定数の外来系土器が含まれ、古墳祭祀に使用されたと考えられる小型壺、小型鉢、直口壺が数多く出土している。 発掘調査報告書の考察によれば、古いタイプの土器(大廓式様式1, 2)についてはこれまで静岡県東部地方では出土例があまり無い器台が出土していること、外来系土器のほとんどが古いタイプと考えられることを特徴として挙げている。年代的に中期から後期に入る頃(大廓式様式3)の土器については、出土した小型壺、小型鉢の多くがその時代のものと考えられること、そして前述の主体部上部から出土し、被葬者の埋葬時期を示唆すると考えられる二重口縁壺、大型壺、高坏の時期に当たるとことが特徴として挙げられる。この時期には土器編成の大きな変化が認められ、古墳祭祀の画期であったことが想定されている。そして後期(大廓式様式4)の時代の土器としては直口壺が挙げられ、古墳祭祀が継続して営まれていたと考えられている。 一方、出土状況から判断して主体部上部や周溝内の土器は、高尾山古墳の築造前にあった住居で使用していた土器が混入した可能性を指摘する意見もある。高尾山古墳から出土した土器が、古墳築造前の住居跡から混入したものであれば、土器を根拠として高尾山古墳の築造時期の古さを主張することは困難となる。この説に対しては、そもそも高尾山古墳の周辺では弥生時代後期前半以後、集落が廃絶しており、古墳築造前の住居からの土器混入があったとしても年代が全く異なると予想され、加えて、土器の出土状況から考えて、高尾山古墳から出土した土器はやはり古墳に伴うものであると考えるのが自然である、との反論がある。2014年(平成26年)度の追加調査では、この問題を解決すべく墳丘の試掘調査を実施した。調査の結果、墳丘内からは多数の土器が出土したが、そのほとんどが大廓式様式1、230年頃の土器であったとして沼津市教育委員会は高尾山古墳の築造年代は230年頃であるとの結論を出した。
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