外来系土器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
高尾山古墳から出土した土器の中には静岡県東部以外の外来系土器が確認されている。外来系土器としては北陸系、近江系、東海西部系、関東系があるが、明らかに畿内系であると判断される土器は一つも出土していない。また発掘調査報告書の考察においては外来系土器は大廓式土器の様式1、つまり最も古いタイプの大廓式土器と同時代と見られる土器がその大半であるとする。一方、北陸系土器についてはもう少し新しい時期、つまり副葬品から想定される年代とほぼ変わらない時期を想定する専門家もいる。 畿内からの土器が全く見られないことから、高尾山古墳は邪馬台国と敵対していた狗奴国の有力者を葬ったのではないかとする説がある。 高尾山古墳周辺の、古墳築造と同時期と考えられる集落から出土する土器を分析してみると、浮島沼周辺の遺跡から出土する土器は、高尾山古墳と同様に東海西部系、近江系、東海西部系の土器が確認されるものの、やはり畿内系の土器はほとんど出土しない。その一方で田方平野、狩野川河口周辺、富士山麓からは畿内式の土器が多数出土している。また浮島沼周辺は他の地域よりも北陸系、近江系が集中して出土している。このように高尾山古墳周辺という比較的狭い範囲においても、外来系土器の出土状況に明らかな違いが見えることは、外来系土器が流入する経路が異なっていたのではないかとの仮説が提示されている。つまり現在の田子の浦港付近から浮島沼を経由して高尾山古墳に至るルートと、狩野川を遡って田方平野方面へ向かうルートなどが想定される。高尾山古墳から出土した外来系土器の中では東海西部系の土器が多く、伊勢湾沿岸地域との密接な交流が想定されている。また高尾山古墳から浮島沼方面、更に富士川を遡り甲斐・信濃を通って北陸方面へ向かうルートの存在も推定される。 外来系土器が見られるといっても、高尾山古墳から出土した土器の主力はあくまで在地の土器である。このことから対外勢力がむりやり沼津の地に入り込んだわけではないと想定される。後述のように高尾山古墳を含む東駿河では、様々な地域との交流を示す外来系土器が見られることから、東駿河の地は各地方同士のネットワークの結節点となっていたと考えられる。このように弥生時代後期以降、東駿河が発展していく中で各地とのネットワークを広げていき、その結果として高尾山古墳が築造されたと考えられている。
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