高尾山古墳築造時の東駿河
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「高尾山古墳」の記事における「高尾山古墳築造時の東駿河」の解説
弥生時代後期後葉、愛鷹山丘陵地帯の比較的標高が高い場所に発達した足高尾上遺跡は、大廓式土器が作られるようになった古墳時代に入っても継続するが、大廓式土器の様式2の時代に入ると急速に衰退していく。一方、大廓式土器の製作が始まった古墳時代に入ると、高尾山古墳の周辺のような愛鷹山山麓の丘陵地帯でも標高が低い場所や、浮島沼付近の低地帯に集落が復活し始める。そして副葬品の内容から高尾山古墳で被葬者の埋葬が行われたとの説が強い大廓式土器の様式3の時代になると、本格的に集落が発達していく。中でも高尾山古墳のすぐ西側にある入方遺跡は、大廓式土器の初期段階から集落が形成され、古墳時代初頭の首長館の跡とも考えられる遺構が発掘されている。入方遺跡は高尾山古墳と同様に、東海西部系、近江系、北陸系の外来土器が見つかっている事実からも高尾山古墳との関連性が指摘され、被葬者の居館であったとの説が唱えられている。 足高尾上遺跡の衰退と前後して標高が低い愛鷹山丘陵地帯や浮島沼周辺の低地帯に集落が発達することは、やはり標高が高い足高尾上遺跡から低地への人の移住が起きたものと考えられる。それに加えて、足高尾上遺跡では外来系土器が少なく、古墳時代に入って発達する標高が低い愛鷹山丘陵地帯や浮島沼周辺の低地帯の集落では、外来系土器が多く見つかっている傾向から、単に高いところから低地へ人が移動したばかりではなく、他の地域との相互交流の活発化という刺激もあって新たな集落が形成されていったものと考えられる。このように比較的排他的な高地性集落であった足高尾上遺跡の衰退と、他地域との交流に積極的な低地帯の新しい集落の発達は、東駿河の本格的な古墳時代の幕開けを告げる出来事であった。 一方、狩野川流域の沖積平野でも、古墳時代に入って大廓式土器の製作が始まる頃から集落が再開されるようになる。中でも現在の駿東郡清水町の恵ケ後遺跡が注目されている。恵ケ後遺跡には高尾山古墳近くの入方遺跡とともに古墳時代初頭期の首長館があったと想定されており、また東海西部系、畿内系といった外来系土器が大量に出土しており、交流の拠点として機能していた集落であると考えられている。多量の外来系土器の出土から他地域との交流の拠点として機能していた往時の様子が想定され、首長の居館があったと考えられる恵ケ尾遺跡は、高尾山古墳の被葬者の本拠地候補の一つである。 また田方平野には伊豆の国市の山木遺跡が注目される。山木遺跡では恵ケ後遺跡ほどの量ではないものの、畿内系、東海西部系、北陸系の外来系土器が出土している。前述のように狩野川流域の恵ケ後遺跡、山木遺跡とも高尾山古墳や浮島沼周辺の遺跡とは異なり、畿内系の土器が出土している。これはやはり外部との交流の形態が異なっていたためと考えられ、古墳時代冒頭時、交通の要衝である東駿河の地では他地域との様々なネットワークが機能した、いわばネットワーク同士が結び付く場所になっていたことを示唆している。 そして高尾山古墳の築造前、大廓式土器の製作が始まる頃、富士宮市丸ケ谷戸遺跡に全長26.2メートルの前方後方墳形の周溝墓が築造されたことが注目されている。規模的には弥生時代の方形周溝墓と大差ないものの、周溝内から在来系の土器以外に東海西部系、畿内系、北陸系といった外来系土器が出土しており、このことから外部地域との交流が丸ケ谷戸遺跡の前方後方墳形周溝墓が築造されたきっかけとなったと考えられ、高尾山古墳の築造に結びつくような社会の変化を表していると考えられる。
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