高尾山古墳をめぐる論争の要点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
「高尾山古墳」の記事における「高尾山古墳をめぐる論争の要点」の解説
前項で述べられたように、高尾山古墳の発掘結果をめぐって考古学の専門家間で多くの論議が巻き起こっている。論議の中心は 築造時期 被葬者像 高尾山古墳が沼津に築造された理由 の3点である。 築造時期については、これまでも述べているように土器から想定される古墳の築造時期と副葬品から想定される時期が異なるという問題があり、これは高尾山古墳を巡る論争の中心となっている問題である。古墳の築造がされたと考えられる3世紀前半代から半ばの時期は、ちょうど邪馬台国の卑弥呼の登場時期と重なる。土器から想定される年代が正しいとすると、高尾山古墳は、卑弥呼が被葬者であるとの説があり、代表的な出現期古墳である箸墓古墳の想定されている築造時期よりも前に築造されたことになる。 なお土器による築造時期推定については、3世紀前半期まで遡ることはないのではないかという意見や、また前述のように、発掘調査報告書の考察では外来系の土器のほとんどは3世紀前半代の古いタイプであるとした点について、北陸系の土器に関しては当てはまらないのではないかという意見や、土器の出土状況から判断して、高尾山古墳から出土した土器は古墳築造前の住居跡から混入したものではないかとする意見がある。 一方、副葬品から想定される年代観は、専門家間で多少のずれは認められるものの、おおむね3世紀半ば頃で一致していると言える。この年代観に従えば、やはり古墳出現期の墳丘長60メートルを超える前方後方墳として知られている弘法山古墳と同時期だと考えられる。一方棺から出土した鉄鏃の一部に、矢が抜けないよう逆刺りの細工をもつ当時の最新式の鉄鏃が含まれており、奈良県のホケノ山古墳や長野県の弘法山古墳で出土した鉄鏃よりも後の時代のものだと判明した。このため、他の前期古墳を抜いて出現期古墳と想定するのは不可能であるとする意見もある。そもそも弘法山古墳の築造時期は3世紀末から4世紀初頭である。 土器と副葬品の編年にずれが生じる問題については、被葬者の生前に古墳を築造するいわゆる寿陵説など、古墳の築造時期と埋葬時期が異なるのではないかとの説が唱えられた。2014年(平成26年)度に行われた追加調査について沼津市教育委員会が示した解釈も、古墳の築造は230年頃、被葬者の埋葬は250年頃であるとして、築造と埋葬との間にタイムラグがあるという解釈であった。 高尾山古墳の年代観が土器と副葬品とで生じた少なからぬずれについて、考古学の古墳編年において構造的な問題であると指摘する意見もある。土器による古墳の年代観では、被葬者の埋葬後も祭祀が行われ続けることが想定されるため、基本的に出土した土器で最も古いものが古墳の築造年代と判断される。一方、副葬品の場合、前時代から引き継がれてきたいわゆる伝世品も副葬されるため、副葬された中で最も新しいものが示す時期が古墳の築造年代となる。つまりより古いものを探す土器と、より新しい要素を確認する副葬品とでは年代についての分析方向が逆であるため、土器の方が古い年代を出しやすい傾向がある。これまでも土器による築造時期の推定が副葬品による年代よりも古く出るという、編年のずれを生じた例があった。このように高尾山古墳の編年についての問題は、単に古墳の年代についての問題にとどまらず、古墳の調査論の深化にも貢献している、と指摘されている。 古墳の被葬者像についても様々な議論がなされている。具体的な被葬者像としては物部氏の一員、特に初代珠流河国造に任命された片堅石命の父大新河命ではないかという説や、卑弥呼率いる邪馬台国と対立した狗奴国の有力者ではないかとの説がある。また副葬品に玉類は勾玉1つであったのに対して、槍や鉄鏃といった武器の副葬が目立つことから、被葬者は武人的傾向が強い人物であったとの想定もある。 高尾山古墳築造の前後、揺籃期にあったと考えられるヤマト王権との関わり合いについては、研究者間で意見の隔たりが見られる。積極的な関与を認める意見としては、東日本に見られる古墳時代初期の大型前方後方墳は、ヤマト王権の東国進出の象徴であり、高尾山古墳が造営された沼津はヤマト王権の東方戦略の拠点であったとする説がある。また、副葬品の槍の項でも触れたように、副葬品の内容からヤマト王権の副葬品の配布を想定する説や、鏡や勾玉のように配布の可能性が指摘されているものもある。 ヤマト王権の東方戦略の拠点とまではいかないが、高尾山古墳の築造は、地域の独自性を保ちながらヤマト王権の東方支配に間接的に連動した結果ではないかとの説がある。この説によれば、高尾山古墳の被葬者はヤマト王権の創始時から参画していたわけではなく、やや遅れて東方進出の開始に際して協力の姿勢を見せた首長であるとしている。ヤマト王権の影響を認めながらも、その影響力はいまだ限定的であったとする説もある。古墳時代の前期前葉に築造されたと考えられる、墳丘長60メートル程度の前方後方墳である高尾山古墳、弘法山古墳や滋賀県の小松古墳からは規格性がある鉄鏃が出土しており、このことから揺籃期のヤマト王権と無関係ではなかったと判断されるものの、箸墓古墳を頂点とする前方後円墳のヒエラルヒーにはまだ本格的に参画していなかったとする。更に高尾山古墳、弘法山古墳、小松古墳などは、古墳時代初頭において箸墓古墳を頂点とする前方後円墳の秩序に属さない古墳の中で、最大の古墳であると指摘している。 一方、東海西部の勢力の関与を指摘する意見もある。前方後方墳系の墳墓は東海西部が分布の中心であり、近畿以東に広まっていたことを主な根拠として、3世紀前半、前方後円墳系の墳墓を採用した邪馬台国連合に対抗する狗奴国連合が、東海西部を本拠地として近畿以東に形成されていたという説がある。このような東海西部系勢力の影響下で、高尾山古墳が造営されたとする意見もある。なお、前方後方墳系の墳墓に代表される近畿以東の東海西部系勢力の結集を想定し、それが狗奴国であるとの説には、そもそも近畿以東の東日本全体で前方後方墳が優勢であったという事実が無く、そのような説には根拠がないとの反論がある。 また、高尾山古墳の多様な要素が混交したあり方自体を重視すべきとの意見もある。高尾山古墳が築造された古墳出現期は、緩やかな秩序が形成されつつあるものの、まだまだ明確な求心性、階層などは見て取れず、日本各地で高尾山古墳に代表されるような個性的かつ多様な要素を包含した古墳が、同時多発的に築造され始めたという共通性、画一性を生み出した背景に注目すべきとする。これは古墳時代初頭の段階ではヤマト王権にしろ東海西部の勢力にせよ、はっきりとした権力の中心としては確立されておらず、高尾山古墳のような古墳の築造も先進的な一地方が牽引したことによってもたらされたのではなく、各地の社会が成熟していき、外部との繋がりを強めていく中で、古墳の築造が各地域の中から始まったものとしている。 そして邪馬台国と狗奴国の関係をめぐる議論では、今後高尾山古墳の存在を考慮に入れないような理論は考えられないとして、「日本の政治的な社会の成り立ちを考える上で重要な古墳」との評価もある。 高尾山古墳がなぜ沼津の地に築造されたのかという疑問については、前述のように古墳時代初頭、互いに性格が異なる東駿河の各集落が結びついて地域社会が形成され、また東駿河は交通の要衝として、弥生時代後期後葉に活性化した広域ネットワークの拠点にもなった。このような東駿河の地域社会と遠隔地を結ぶ広域ネットワークを掌握した首長によって、高尾山古墳が沼津の地に築造されたと考えられる。
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