高尾山古墳の発見と名称について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)
「高尾山古墳」の記事における「高尾山古墳の発見と名称について」の解説
高尾山古墳の墳丘部には、かつて前方部には熊野神社、後方部には高尾山穂見神社が鎮座していた。中でも後方部の高尾山穂見神社は方形をした高台に立地していたため、古墳の上に建てられているのではないかと推測されるようになった。 加藤学園考古学研究所に勤務していた小野真一は、知人とともに昭和40年代、東名高速道路に伴う遺跡調査中に、高尾山穂見神社は古墳上にあるのではないかと考えるようになった。小野は1978年(昭和53年)、自らの著書「目でみる沼津市の歴史」上で高尾山穂見神社にちなみ高尾山古墳として紹介し、墳形は方墳であるとしていた。ところがその後、沼津市が遺跡として登録する際、小字名にちなみ辻畑古墳として登録した。しかし辻畑は古墳北側の地名であり、高尾山古墳の小字名は正確には北方である。 沼津市が遺跡として登録したにもかかわらず、しばらくの間、調査が行われることもなく、古墳に伴う遺物等が確認されることもなかった。事態が動くきっかけとなったのが都市計画道路沼津南一色線の建設計画の進展であった。平成に入る頃から都市計画道路沼津南一色線の道路建設が進み、道路予定地となった熊野神社、高尾山穂見神社付近も2005年(平成17年)度までに用地取得が進んだ。そして両神社とも東側の隣地に移転することが決定したが、そこで問題となったのが高尾山穂見神社の下に眠っているとの説があった古墳の存在であった。そこでまず2005年度から神社の移転予定地と高尾山穂見神社の北東側で試掘調査が行われる運びになり、その結果、周溝、土師器が検出され、高尾山穂見神社が乗る方形の高台をめぐる溝状の遺構が確認されたため、方墳ではないかと推定された。 2007年(平成19年)度には第2次の試掘調査が、2008年度から2009年度(平成20年度~平成21年度)にかけて本調査が実施された。発掘調査の結果、長野県松本市の弘法山古墳などと同じく、3世紀代に築造された古墳出現期の前方後方墳である可能性が高くなった。そして2011年(平成23年)、これまで辻畑古墳とされていた古墳の名称を、小野真一が最初に名付けた高尾山古墳を正式名称とすることになった。なお本調査では後述する道路建設と古墳保存との関連で、埋葬施設など主体部の発掘は行われたが、墳丘を掘り下げる調査は中止された。 2014年(平成26年)度には、高尾山古墳の築造年代の確定と、主体部が複数存在するかどうかについて検証するために、追加調査が行われた。
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